4月 20, 2008

若葉の色

桜があっという間に終わり、すっかり若葉の季節になった。満開の桃や桜もいいけれど、次々と萌え出る若葉の方がもっといい。何より力強い生命を感じる。この時期、空気も、何となく若葉のかおりに匂い立つような気がする。毎朝毎夕、電車の窓から色々な若葉の色を楽しんでいる。

そこで、今年とくにはっきりと気づいたのは、若葉の色は緑色とは限らないということ。本当に色々ある。大きく分けると、緑系と、赤系。

緑と赤なんて、補色の関係にある2色、つまり色相的には全く反対の色同士なのに、その2色がともに若葉の色だなんて、なんだか不思議。

写真はベニカナメモチという、よく生け垣に使われている常緑低木の若葉。ほんとうに真っ赤で、日に透かすと、燃える炎のよう。その他、クスノキの若葉も出始めは赤いし、モミジにも、赤い若葉を出すものが多い。柘榴もそう。もしかすると、薔薇もそうかな?考えてみると、けっこう多くの若葉が赤系統なのだ。若葉は青いとは限らない。

そういえば、生まれたての子のことを、「みどりご」ともいい、「あかご」とも言う。やはり緑と赤。昔の人は、若葉の色になぞらえて、生まれたての人間のことを呼んでいたのだろうか。とすれば、何となく納得。

毎朝毎夕の若葉の観察は、私の一日の中でも、いちばんの至福の時。きらきら光る若葉もよし、また、どんより曇った日の、不透明で深い色もよし。どんな天気でも楽しめる。きれいな色を見るのは、決して視覚だけの喜びではないような気がする。宮沢賢治が『注文の多い料理店』の序文に言うように、それは、ある種の「たべもの」なのだと思う。朝日にきらきらと透ける若葉の色を見ていると、ほんとうに、お腹も胸もいっぱいになるのだ。こういう「たべもの」に飢えることが、私としては一番こわい。

(『注文の多い料理店』序文)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43735_17908.html

4月 06, 2008

さくら満開!

ベランダ下の桜が満開。

画面左下に、
くねくね猫が!

ちなみに、彼のくねっている場所は、下の階(2F)の人の出窓の上。


 「なんやおまえ!写真撮っとったんけ!」 
(マヌケ顔というか、おっさん顔というか。猫というより、狸...)

おすまし顔も一枚。

日の出の光を浴びるタマジ。







GNPよりGNH ~憧れの国ブータン

先の記事、「消えた畑」に、公一翁からコメントをいただいた。

 「あっしの住む加古川でも、田んぼがどんどん住宅地に変ってゐます。
 農業の後継者不足が一番の要因とは思ひますが、実は固定資産税もそれに荷担してるんですぜ。
 ご存知のやうに土地に係る固定資産税は、「土地の評価額×税率」ですが、農地は宅地に比べて、評価額が低いんです。 それで一般的には税金は安いんですが、大都市圏では、「優良な住宅の供給」を推進するために、農地も宅地化させようってんで、「農地の宅地並み評価」をして、農地にも宅地並みの課税をしてるんです。
 さうすると、年取った農家の方は「貸し駐車場にしよう」とか「売ってしまはう」となるわけです。
 昭和40年代ならいざ知らず、「食の安全性」とか近未来の食糧危機が問題になってるときに、旧態依然とした制度が残ってるのを知って、愕然といたしやした。」

たしかに、税法を少しでもかじると、一時しのぎのために作られたはずの制度が、不必要に残っているのに出会い、それが弊害を生じていたりして、愕然としたり、憤りを感じたりすることがある。

都市部の農地は宅地並み課税...それだと、たしかに税金を払うために、遊んでる土地を駐車場や賃貸住宅にでもせざるをえなくなる。都市部ではもう住宅が余ってきてるというのに... 税制が食料自給率の低下と、地球温暖化を促進してるようなものだ。こんな時代なのだから、逆に、温暖化防止対策として、都市部で緑化のために土地を使うと、固定資産税が軽減されるという制度を作ればいいのに...

おそらく、固定資産税の税制改革と、温暖化防止対策との間に何らかのつながりを見出すことなど、「お偉い人」には不可能なのだろう。ついでに言うなら、「道路特定財源」なるものも、もう自動車のために使うのをやめて、「自転車専用道路」の建設のために使ってくれればいいのに... そうすれば、みんなもっと自転車に乗るようになるだろうから、それこそ、温暖化防止に直接貢献するし、事故も減る。でも、それも、自転車なんかもう何十年も乗ったことのない人たちには、どうでもいいことなのかもしれない。

税制と関係するのかどうか知らないが、戦後の「杉を植えよう」政策の愚かさも、ひどいものだ。広葉樹を伐採して、換金性の高い(と当時おもわれた)杉を植林。でも結局、国産の杉は売れず、保水力を失った山は崩れ、スギ花粉症が国民的病気となっただけに終わった。稲の減反政策なんかも、本当に愚かしい!それもこれも、「発展」といえば、「経済的発展」のことをさすと思い込んできたせいだ。

開国にあたり、国王みずから、「わが国はGNP(国民総生産)ではなく、GNH(国民総幸福量)を発展の指標とする」と宣言した国がある。長らく鎖国を続けていたアジアの小国、ブータンである。

近代化というものが、必ずしも国民に幸福をもたらすとは限らない、という考え方からだそうだ。無防備に西洋的近代化を受け入れるのでなく、森林や農村を保護しながら、高い食料自給率を維持しつつ、ゆっくり慎重に近代化を進めていくという国策をとっている。経済的には貧しくとも、国民は豊かに幸せに暮らしている、という国づくりを目指すのだそうだ。

日本などは、その良い「反面教師」になっているのだろうと思う。日本に視察に来たブータン人のコメントが印象的だ。

「日本は、GNPは高いし、西洋的な近代化という面においては最も進んだ国かもしれないが、大都会に暮らす国民を見るかぎり、時間的ゆとりもなく、あまり豊かそうにも、幸せそうにも見えない。」 

それもそのはず、GNPというものは、単に国の経済活動を測るだけのものなのであって、戦争や自然災害などの「特需」も、プラスとして計算され、国民が不幸になっても、数字が上がるものなのだから。

日本もブータンのように、開国の初めからこのようにしていれば、今頃ずいぶん違った国になっていたかもしれない。明治時代の無防備な近代化の弊害が、あらゆるところに、もう耐え切れないほどに現れ始めているように思う。

ああ、なんか熱く語ってしまった(笑)。

ちなみに、このGNHを国の発展の指標に、という考え方は世界各国で評価され、「GNH研究所」なるものまで誕生している。しかし、ブータン国王は言う。「この考え方が、単なる流行言葉のようになってしまってはいけないと思う。」 この思慮深さが、またいい。

亡父は、絶対に外国旅行には行きたくない、という人だったのだが、ブータンにだけは行ってみたいと言っていた。父の遺志を受け継いで、いつか行ってみようかな...

3月 29, 2008

消えた畑

もうだいぶ経つが、近所にあった畑が消えた。周りからどんどん田んぼや畑が消えて、あれが最後の「ともしび」だったのに。

昔、ここにに引っ越してきたときは、まだたくさん田んぼがあった。春には一面にレンゲの花が咲いて、友達と一緒に花輪を作ったり、ままごとをしたりできた。その後、あれよあれよという間に、田んぼがつぶされて住宅や駐車場に変わっていった。いま田んぼはゼロ。かろうじて残っていた小さな畑も、持ち主の意向で、とうとうアスファルトで固められてしまった。今そこは大きな駐車場になっている。

その最後まで残った小さな畑というのは、実はただの空き地だったのを、近所に住む人たちが、勝手に畑にしていたもの。どうせ草ぼうぼうで放置されている空き地なのだから、使ってもいいと思ったのかもしれない。地主にちゃんと許可をもらっていたのかどうかは知らないが、その空き地を囲む家々のおじさんたち(おそらく仕事を退いたご隠居さんたちだろう)が、朝から晩までのんびり野菜を作っていた。ニワトリも何匹か放されていた。そこには一種のコミュニティーが自然に出来上がっていた。

野良猫も通れば、遊びに来た孫を連れて来る人もいた。畑は丁寧に手入れされ、季節の野菜や花が綺麗に植わっていた。通りがかりに、ネギやニラをもらったこともある。青虫が初めてヒヨコを触らせてもらったのも、そこだった。おじさんたちは、本当に生き生きと畑仕事にいそしんでいたものだ。

この畑には、畑に直接たずさわらない他の住人にとっても利点があった。いつも畑に誰かが出ているため、常に「人の目」がそこにあった。つまり、防犯上、とても有り難かったのだ。子どもの通学や、遊びの行き帰りを見てくれている人がいるという安心感があった。

そこが、いきなりアスファルトの駐車場になってしまったのだ。聞けば、持ち主は土地の人ではない。どこか遠くに住んでいるらしい。近所の人が勝手に畑にしていると知って怒ったのか、代替わりするなどして、空き地にしておくのは勿体ないと思ったのか、事情は何も分からないが、きれいに植わった野菜も、おじさんたちが作った柵も、モンシロチョウの幼虫も何もかも、あっという間に掘り返されて、固められてしまった。おじさんたちは家にこもり、昼間放してもらっていたニワトリたちは、小屋に閉じこめられた。畑だった時は、夏でも涼しい風が吹いていたのに、駐車場になったせいで、風は熱風に変わった。

中でも特に熱心に畑仕事をしていたあのおじさんは、今は昼間は何をしてるんだろう?あの畑をトイレにしていた野良猫たちは、今はどこで用を足しているんだろう?秋になると、いい声を聞かせてくれるあのコオロギたちは?大量にいたミミズやダンゴムシたちは?私と青虫が家で育て、孵化させて、こっそり放したモンシロチョウが、元気に育ったキャベツの裏に卵を産んでいたはずなんだけど?こうしたことの全てを、遠くに住む地主は知るわけがない。

つくづく、土地というものは、そこに暮らすものたちのものだと思う。ある国が、遠く離れた国を植民地にするのはもってのほかだが、ある人間が、遠く離れた土地を「所有」するのも、同じように良くないと思う。もっと言うならば、「人間が土地を所有する」ということ自体、人間が勝手に決めたルールであり、そこに暮らす他の生き物の存在を無視した行為なのではないだろうか。そこに暮らしているのは人間だけではないのだから。

健気に生きる、ささやかな命をコンクリート詰めにして、お金に換える。住環境から、人間以外の生命を駆逐し、「きれいになった」と思い込む。こうやって子どもを人工的な環境におき、お金を出せば何でも手に入るという生活をさせていて、口先だけで生命の尊さを語っても、子どもは何も学ばないだろう。世の中には、色んな種類の生き物が生息していて、お互い譲り合って暮らさなければいけないことに気づく機会を奪っているのだ。

「そんなかたいことばっかり言うとったら、そのうち人に嫌われるで」、と妹は言う。そうかもしれない。でも、嫌われてでも、言うべきことがあると思う。言えば、賛同してくれる人も現れるかもしれない。とにかく、この畑の一件に関しては、2年近く経った今でも、ほんとうに残念で無念で仕方がないのだ。

3月 24, 2008

春の別れ

今からちょうど1年前、ちょっぴり傷心気味で帰ってきていた妹(「ニートの効用」)が、このたび晴れて(?)就職することになり、再び家を出て行った。その間、青虫は急に姉ができたような嬉しさでいっぱいだった。馬の世界への導入もしてもらった。私は散らかし魔の妹に小言を言いつつも、内心では気安く青虫のことを任せられることに感謝していた。

1年間、馬とタマジと青虫にゆっくり癒されて、妹は再び旅立った。といっても、京都なので近い。京都にまた縁ができるのも嬉しい。

でもやっぱり、荷物が運び出されて、空っぽになった妹の部屋を見るにつけ、楽しかった1年を思い出し、どうしようもない寂寥感に襲われる。青虫はもっとそうだろう。

これから難しい時期に突入する青虫を、独りでどうやって育てていこうか、途方に暮れる...といえば大げさに聞こえるかもしれないが、実際、「叔母の力」というものは、それほど大きい。子どもにとって、きょうだいや、叔父・叔母というものがどれほど大切なものか、今回でつくづく思い知らされた。

ドタバタと忙しかったけど、本当に有難い1年だった。

ま、無くなったことを嘆くより、有ったことに感謝しよう。

3月 09, 2008

青虫がサナギに?

青虫が、ちかごろいわゆる「思春期」にさしかかってきたように思う。第二次性徴も徐々に現れ始めたし、なんとなく扱いにくくもなってきた。具体的に言うと、

1.急に背が伸びてきた。年末に買ったズボン、買ったときは裾をひきずる感じだったのに、昨日、久々にそれをはいた所を見たら、もうくるぶしが丸見え!もうほんとに、タケノコみたいな勢いで伸びている。

2.小食だった子が、最近びっくりするほどモリモリ食べ、心配になるぐらいよく眠る。

3.時々、恐ろしく機嫌が悪い。

このあいだ、青虫の髪の毛が見事にボサボサだったので、整えてやろうとすると、いきなり、「やめろや!おまえ調子のっとんか!?」などと言って噛みついてきた。この下品な口調は多分、クラスの男子のサル真似だろう。けど、要するに親に触られたり、子供扱いをすると突然、激怒するときがある。

(タマジがくつろいで身を横たえているときに、人間がタマジのお腹をつつくなど、ちょっかいを出した時にタマジが見せる反応と全く同じなのが面白い。ただし、タマジの方は文字通り、ほんとうに噛みついてくる。当然のことながら、人間、血まみれ。)

まさに、青虫は今、サナギになる直前なのだろう。モリモリ食べて急に大きくなり、動きが減って、じっとし始めたら、サナギになりつつあるのだから、触ってはいけないのである。サナギの間、たぶん心配で心配でしかたがないだろう。中で死んでないだろうか。寄生虫が卵を産んだりしてないだろうか。気が気じゃないだろう。その間、外からは決して分からないサナギの健康をひたすら信じて、我慢し続けなければならない。そうすれば、待ちに待った孵化に立ち会えるのだ。でも、人間の場合、そのサナギの期間は何年にも及ぶ。下手すると、20代まで長引くかもしれない。

なんと難しいことなのだろうと思う。果たして、私にできるだろうか...

一方、祖母は祖母で難しいお年頃。最近ものすごく被害妄想が激しく、毎週様子を見に行く母を困らせている。母は毎回途方に暮れて帰ってくる。これまた難題... 

人間とは本当に複雑な生き物だと、つくづく思う。

3月 07, 2008

とりかえしがつかない

悔しい。今年はもうイカナゴの釘煮ができない。せっかく張り切っていたのに。妹にも教えてやろうと思っていたのに。

自家用に少しだけ釘煮を作ったその明くる日、目と鼻の先で、貨物船とタンカーが衝突。沈没した貨物船から重油が流れ出し、いま何十キロにわたって広がっている。それをスクリューで散らしているところなのだそうだ。散らしても無くならない。

解禁されたばかりのイカナゴ漁。この辺の漁師さんたちにとって、この時期は一番の稼ぎ時であり、この辺のおばちゃんたちにとっては、この時期、長年磨いた腕の見せどころ。全国の親戚縁者に向けてイカナゴの佃煮を発送する大切な行事なのである。どの家からもイカナゴを炊く匂いが流れてきて、バスに乗れば、今年は30キロ炊いただの、私は体調が悪いから10キロしか炊かなかっただの、今年の新子(イカナゴの稚魚)のできはいいだの、わるいだの... 今年はクルミを入れてみた、私はレモンを入れてみた、いや、胡麻を入れても美味しいよ、なんて話しに花が咲きまくり、地域が一斉に活気づくはずの時期なのだ。

それが、今年は流れ出した重油のせいで、漁を自粛せざるをえず、店頭に並ぶのは鮮度の落ちる大阪湾産のみ。垂水・明石のものは今年はもう無理なのだそうだ。しかも、油はすでに大阪湾にも達しているという。漁師さんたちの生活の糧が、おばちゃんたちの生き甲斐が、無残に奪われてしまった。イカナゴだけじゃない。このあたりの名産の海苔の養殖も、鳴門ワカメも、明石鯛も明石のタコも、みんな駄目になってしまう。そして、再び海がきれいになるのに一体何年かかるだろう。

ちょうど、水俣の不知火海の水銀汚染の話を読んでいたところである。もちろん内容も規模も深刻さもぜんぜん違う。でも、共通するのは、とりかえしがつかないということ。いくら金銭で補償してもらっても、海は元に戻らない。漁民たちにとって、大切なのは自分の体や収入だけではない。彼らの人生と一体になった海。彼らの存在の母体としての海そのものなのだ。それを汚されては生きていけない。

石牟礼道子さんは、海はあらゆる生命を生み、育む、母親の羊水のようなものだという。海水汚染は、母胎に毒を垂れ流すことを意味するのだ。

とにかく、とりかえしがつかない。

2月 28, 2008

別人?


公園で拾われた直後のタマジ。(きゃさ、無断で画像を拝借したよ!) こんなに頼りなげで、いたいけだった子が、今では...

こんな小太りのおっさんに!(比べるために、同じポーズをとらせてみた。) 大きかった耳が小さくなり(顔が大きくなったため)、長かった肢が短くなった(胴回りが太くなったため)。尻尾がちゃんと、ふさふさになったのは良かった。前はあんなに出来ていた「特大回転ジャンプ」が、今では「しょぼい仁王立ち」に変わっている... それでも、私は、猫は、子猫のときよりも、大人になってからの方が好き。

こうやって、比べてみるとなかなか面白い。これからも、年に一度、同じポーズをとらせて写真におさめておくことにしう。上の2枚の間に、もう一段階あったような気がするな... 少年期のタマジが。こんど探してみよう。(完全に親バカ状態...)

2月 27, 2008

この世とあの世のあわい

石牟礼道子さんの本の中には、「この世とあの世のあわい」という言葉がよく出てくる。

私の祖母が、どうやら最近、そういう世界に生きているらしい。92年間、苦労に苦労を重ねた人だ。1個の原子爆弾が彼女の人生を大きく変えた。一人で暮らしていて、今でもしっかりコープの注文書など、自分で書いて食料を注文し、炊事洗濯なども何とかひとりでこなしている。でも、ぼんやりしていると、聞こえるはずのない声が聞こえたり、居るはずのない人が居たりするらしい。ラジオの声が自分を馬鹿にしたり、テレビの人が急にテレビから出てきたり。

先日など、死んだはずの親戚が部屋にいて、「そこ、ちょっと使いたいから、あんた早くのいて」と言われ、急いで身支度をして、隣の部屋に退いたのに、よく見ると、その人はいなかった...などということが、頻繁に起こるようになっている。油断するとすぐに、こんな「あわい」に入り込んでしまうようだ。

母が週1回、日用品などの買い物をして届け、一緒に昼ごはんを食べて帰ってくる。その時と、コープの注文書を書くときだけが、現実に戻れるときなのだろう。母の来訪を本当に心待ちにしている。

電話はしょっちゅうかけてくる。いつも母が出る。この前は可笑しかった。夜に祖母が電話をかけてきて、色々と話したあと、母に、「あんたたち、もうそろそろ死ぬる頃?」と聞いてきたのだ。広島弁で「死ぬ」ことを「死ぬる」という。おそらく、「もうそろそろ寝る頃?」と聞きたかったのだろう、でも、何しろ「この世とあの世のあわい」に暮らす祖母のこと、彼女のなかでは、もはや死ぬることは、寝ることに限りなく近いのだろう。笑うべきかどうか、母は瞬間に判断できず、絶句していたところ、祖母の方から、「ああ、ああ、死ぬるんじゃなくて、寝るんよね」と笑ってくれたそうだ。

最近になって、これまでずっと封印していた原爆体験のことを、母に語り始めたそうだ。それが一部私たちにも流れてくる。広島弁で語られると、なんとも柔らかで、切ない。

2月 25, 2008

ふるさと訛り

いま熊本県の水俣あたりを旅している。 ...本の中で(笑)。

ふとしたことがきっかけで、石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読んだ。ずっと気になっていたくせに、なかなか手をつけなかった本だ。背中を押してくれたのは、志村ふくみさん。彼女の著書の中で紹介してあったのだ。この人が推薦するのなら間違いない、と思って読み始めた。本に対する嗅覚にはまったく自信がないので、いつもこんな風にして読み始める。

この本、会話はすべて、地元のことば(水俣弁?)で書かれている。それがものすごくいい。あまりに妥協のない表記なので、最初よく分からなかったのだが、読み進むうちに、ある程度慣れてきて、水俣弁が多少分かるようになってくる。今ではもう水俣弁がうつってしまい、独り言も水俣弁で言ってしまいそうなほど(笑)。

「自分のことば」でしか感じることのできない深部・暗部というものが、人間には確かにあるように思う。私の場合、それは播州弁だ。姫路あたりを中心とした播州のことば。その「ことば」でしゃべるとき、言葉にしっかりとした根が生える。土にしっかりとつながる。心の内奥を言い表すのに相応しいのは、こういう言葉なのだと思う。

たまに、小説やブログなどの書き物に、方言で書かれたものを見つけることがある。ものすごく興味深い。どうやって発音するんだろう、とついつい自分でも声に出して読んでみたくなる。生き生きとしていて、ちゃんと「味」がある。「ふるさとのことば」を持っている人は幸せだと思う。それをちゃんと使える人は素敵だと思う。「ふるさとのことば」というのは、基本的に話し言葉なので、表記するのが難しいけど、あえてそれをやってみるのも面白いかもしれないと思う。というか、方言がどんどんなくなっていっている今、それは必要なのかもしれない。

2月 12, 2008

春の兆し その2

タマジである。最近やたらとベランダに出たがるようになったし、出たらしばらく入ってこない。いくら寒くても、出っぱなし。いつも目がぎんぎんしてるし、外で何か音を聞きつけると、いてもたってもいられないという風。ああ、ここにも春が。

とにかくオスは縄張りを広げないといけない時期らしく、やたらと未踏の領域に進出したがる。応急措置で柵を作っていたものの、いわゆる「イタチごっこ」で、どうやっても抜け出てしまう。何度か隣の家のベランダまで行ってしまった。いちおう、内緒で飼っているので(もうとっくにバレてるだろうけど)、それでは困る。で、この度、必死で考案した特製の柵を作った。丈夫な棒と、鳥よけネットを駆使して、一日がかりで設置。今のところ功を奏している様子。

※写真は春の兆しとは関係ありません。変な格好で眠るタマジ。

2月 09, 2008

「つまる」

さて、今日のはなし、うまく書けるかどうか分からない。少なくとも、青虫には伝えようとして伝わらなかった。まあ、子供にはちょっと難しすぎるかもしれない。

こんど青虫が、小学校の「ミニ音楽会」で、ピアノを担当することになり、せっせと練習している。

で、昨日、夕飯のあと、

「ピアノちょっと聞いてみて。つまらんようになったで~」

と、青虫が言うので、

「え?つまらんようになったん?なんで?楽譜が変わったん?」

と、私。ポカンとする青虫。ん?何かすれ違ってる?

つまり、青虫は「淀みなく弾けるようになった」という意味で「つまらない」と言っているのに対し、私は「面白くなくなった」という意味で「つまらない」と受け取ったのだった。最近の子供は、テレビの影響か、ちゃんとした関西弁が話せないので、ことばのアクセントからは判断できないことが多いのだ。

誤解はすぐに解けたけれど、そのあと、お風呂でぼんやりその一件を反芻していて、あることに気がついた。それは、「つまらない(行き詰まらない)」ことは、もしかして、「つまらない(面白くない)」のではないだろうか。字だって、「詰まらない」と、同じ漢字を使うではないか。もしそうだとすると、「つまる(行き詰る)」ということと、「つまらなくない」=「面白い」こととは、深い関係があるのではないだろうか、ということだ。行き詰まりを経験しなければ、面白みは分からない。そういうことなのではないだろうか。なんと深い知恵なのだろう、と独りお風呂で感心していた。

お風呂から上がって、私のこの素晴らしい思いつきを青虫に説明したところ、「ぽかーん」とされてしまった。明らかに興味がない、といったふう。

いま私は多分、あることで、ひとつの「行き詰まり」に直面している。(私の人生自体、常に行き詰っているとも言えるが...) でも、昨日のこの思いつきにより、何かが「すとん」と腑に落ちた。そうだ、行き詰まりには意味がある。「つまる」ところは、面白いところなのだ。それに対して懸命に取り組めば。

2月 07, 2008

春の兆し

朝ときどき通る大阪裁判所の敷地には、豪華なボケの花の生垣がめぐらせてある。そろそろ咲く頃かと思って、昨日すこし遠回りして見に行ってみた。咲いてる、咲いてる!梅も!殺伐とした裁判所の建物に、豪勢な花の生垣。なんか不釣合いな感じ。いや、これでようやく釣り合うのかもしれない。

ボケの花。漢字では「木瓜」と書く。瓜とは関係なさそうなのに、なんでだろう。桜や梅や桃と同じ、バラ科の植物。小さい頃は、あんまり好きじゃなかった。なんとなく安っぽい感じがして。背は低いし、色はいかにも日本の朱色という感じで、色に深みがないように思えたし。それが、なぜか今は梅よりも、桜よりも好きになってしまった。幹の折れ具合、色合い、花の艶やかさ、なんともいえない風情を見出すようになった。本当に、趣味って変わるもんだなあと思う。今では、ボケの花のような女性になりたいとさえ思う。...不思議。

寒い朝だったけど、この咲き乱れる花々を見たら、とたんに暖かく感じて、思わずマフラーをはずした。

春だ!

1月 22, 2008

かまどに火を入れる

去年の冬に引き続き、今冬も、室内全体を暖めるような暖房は使わないで過ごしている。使うのはホットカーペットと、立ち仕事の足もとを暖める小さな電気ストーブのみ。マンションなので、そんなに冷えないというのもあるが、何より、空気自体を暖めたり冷やしたりするのが、あまり好きではないからだ。

そうすると、朝、紅茶を作ったり、朝食の準備をしたりし始めると、それだけが熱源となって、徐々に、徐々に、台所兼居間がぬくもり始める。これが何とも感じ良い。まさに「かまどに火が入る」という感じなのだ。きっと、かまどの火はもっと暖かいのだろう。でも、その感じが、少しは味わえる。朝早く起きて、かまどに火を入れることは、とても大切なことなのだと分かる。

自然と台所近くに人が集まる。人がばらばらにならないのは、特に冬には大事なことだと思う。もちろんタマジがその中心に君臨する。

冬はいいなと思う。

1月 20, 2008

友達になれたら...

画面手前にはベランダの突き出たところで近所を観察するタマジ。そして、そのずっと向こう、画面上部の真ん中辺に茂る木の下に突き出したフェンスの中で、やっぱり近所を観察している犬が見えるでしょうか?小さくて見えにくいので、その突き出したフェンスのあたりを光学ズームでアップにしてみましょう。
はい!これで見えるでしょうか?そこに居るのは、大家さんちの牧羊犬ジャッキー。口笛を吹いたら、こっちを向いてくれました。

タマジとジャッキー。こっちとあっちで、いつも同じ方向を向いて、それぞれ退屈そうに日がな一日、誰かが遊んでくれるのを待っている。この2匹、友達になれたらいいのに...

と思って2人を引き合わせてみても、うまい具合に仲良しにならないのが世の常。生き物って、ほんとに難しい。

1月 13, 2008

いつも週末に地元野菜の買い出しに行く、近郊の田園地区。広々とした冬の風景が広がる中、青虫とその叔母は、ちょっと車を止めて一輪車の練習。青虫が先生。なんでも、乗馬の上達に役立つのだそうな。
これは何の木だろう?スズカケに似た可愛い実がついていた。冬の木の、こういう姿も可愛らしい。

身体をまんまるにして寝る冬のタマジ。平和。


1月 05, 2008

タマジのお友達

カッパといいます。よろしく。

最近いつも、夜になると、タマジが私の布団に入ってくる。チリチリと音がするので私が気づいて少し布団を開けてやると、するするっと入ってきて、くりんと丸まって寝る。

でも、昨日はするするっとは入ってこなかった。何かがつっかえる。なんか持ってきている!眠い目で暗闇の中を凝視すると、なんとタマジはカッパちゃんをくわえて来ていたのだった。カッパちゃんをまず押し込んで、それから自分が入ってきた。

なんで私がカッパちゃんと寝なあかんねん...



左は、カッパちゃんの毛づくろいをしているタマジ。子猫のときから、カッパちゃんに執着している。
カッパちゃんは、タマジにとってきょうだいもであり、友達でもあり、彼女でもあるのだ。
でも実は、このカッパちゃん、もともとは、とても素敵な女性から、青虫にといただいたもの。ごめんなさいね、N代さん...

1月 04, 2008

新春画像

今年の我家の年賀状のネズミ曼荼羅です。

住所がわからなくて年賀状を出せなかった方もいるので、ここにもアップ。

南天と、蒲(ガマ)を描いてみました。

ネズミはマヤ・アステカ文明の壷の絵柄からのパクリ。

みなさまの今年一年のご健康とご多幸をお祈りいたします。


皆様のご要望に応えて、最近のタマジ。いや、実はご要望などないんですが。(何の変哲もないありふれたキジトラちゃんだから仕方ないね。)でも、親バカなので、見てやってください。こんな可愛い子は、なかなかいませんよ。ちょっと色っぽいしぐさをしていたので。(オスだけど)
タマジより新年のご挨拶。頭に乗っているのは、お気に入りのシロネズミ。最近気に入っているおもちゃは、このネズミと、羽と鈴のついた猫じゃらしと、相変わらずカッパちゃん。でも、カッパちゃんは、おもちゃというよりは、ガール?フレンド。 ときどき、仲間にしてやるように、毛づくろいしてあげてます。

昨日は新春ドライブ。近くの地元野菜販売所まで。残念ながらまだ開いてなかった。でも、田園の中、妹が青虫に一輪車の特訓を受けた。その間に私は田んぼのあぜ道を探索。オオイヌノフグリが元気に咲いていた。

1月 01, 2008

迎春

新年あけましておめでとうございます

みなさまどんな新年をお迎えでしょうか。うちは年末ぎりぎりまで青虫が乗馬合宿に行っていたこともあって、新年を迎える準備が整わないまま、あれよあれよという間に新年になっていたという感じ。今年は年賀状を出したのも遅く、まだお手元に届いていないかもしれません。

というわけで、この場を借りて新年のご挨拶。今年もよろしくお願いいたします。

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年末に、一編の新聞記事に出会った。大津市坂本にある「麦の家」という、小農の思想を体現した自給自足の家に関する記事。それに興味を抱いて、その家の創始者、松井浄蓮の本(『終わりより始まる』松井浄蓮著・法蔵館)を読み始めた。その中に、次のような言葉をみつけて、感心してしまった。ものすごくかっこいい... 

「あなたにとっては、どうした出雲の神様の悪戯か、こんなものと苦労をともにして頂くことになったが、もはや、そのあなたも知ってもらっているように、私は普通の人間ではない。結婚した以上、二人にとって一番大切なものは愛情であるが、これは一つあなたの責任、受け持ちにしておいて下さい。その代わりに、二人の生活、お互いの乗っている船をどっちへ向けて漕ぐかということは、私が全責任を持ちます。それから、これは少し早手まわしに過ぎるかもしれないが、いずれ子供も生まれようがこれも全部あなたの責任にしておいて下さい。絶えず亭主の私がどっちへ向いているかをあなたが頭に入れておいて、どのような困難な中でも子供に親を見失わぬようにたのみます。少し酷な言い方で気の毒だけれど、二人の愛情や生活だけにとどまらぬものを探して生きている男で、世間並みの地位や名誉、財産などであなたを幸福にすることは、恐らく一生できぬと思いますが、一つよくこれを腹において、私と一緒に苦労して下さい。お願いしておきます」

こう言われて喜んで浄蓮との生活に飛び込んだテルさんもすごい。神戸女学院という超お嬢さん学校で英文を学んでいたインテリ女性のテルさん。浄蓮が、京都の蹴上で、山科越えをする荷車の後押しという「行」に励んでいる姿を目撃し、一目惚れしたそうだ。そのとき浄蓮は乞食姿で、野外の土管に寝泊まりしていたというのだから、この女性の人を見る目はかなり特別だ。

そうして、ふたりで無我夢中で築いていったのが、今の「麦の家」。最初は、壁もないトタン屋根の掘っ立て小屋で、親子8人、3日間大根ばかり、良くて、3ヶ月間ジャガイモばかりの生活を続けながらの開墾生活だったらしい。その最中、浄蓮があまりの過酷さに、テルの苦労をねぎらって、「必ず数年のうちにはなんとかなると思うから...」と言ったときの、テルさんが返した言葉がまた、かっこいい。

「それでも、妙なものですねえ。ここへ入ってから、夜、寝て、シンが休まりますから...」と、ポツリ、笑い顔をしてくれたそうだ。そして、彼女の本当に気持ちよさそうな寝顔を見て、亭主として腹がすわったという。これほど過酷な生活の中にあって、不平顔ひとつ見せないどころか、むしろこの生活に心の安らぎを見出していたというこの女性、ただ者ではないのだろう。

もちろん、時代のことも考慮に入れなければ、この2人の行動は理解できないだろう。敗戦直後で、食べるものも、頼れるものもない時だ。浄蓮は、日本人が、自分たちの食べるものを自分たちで作る以外に復興の道はないと考えた。そして自ら小さな一分子として、それを実行した。彼にとって、国全体の運命がかかった、命がけの試みだったのだ。

今は代が変わって、彼らの子や孫の世代が「「麦の家」を継いでいる。

http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news001607.html

今はどんな風になっているのだろう。ぜひ自分の目で確かめに行ってみたい。そして、私が直感的に心惹かれたものの正体を、これからの私の生き方の指針となるものを、探る1年にしてみたい。

12月 14, 2007

一瞬の輝き

柘榴(ザクロ)の季節。夏に鮮やかなオレンジ色の花を咲かせていたのが、今、これまた鮮やかな真紅の実を実らせている。どうしても食べたい。でも、残念ながらどの柘榴も誰かの家の庭木。盗むわけにいかない。

それで、しかたなくお店で買った。カリフォルニア産。物心ついて以来、初めてザクロを食べる青虫は、もう大喜び。一粒一粒ちまちまと、実をはずして食べた。私も大好き。何より色がいい。まるでガーネットを食べてるみたい。いや、ガーネットは日本名「ざくろ石」だから、逆か。

毒々しくて、ちょっと「血」のような雰囲気も持っている。それもまたいい。吸血鬼か何かになったような気分で、残酷に、荒々しく貪る。

この果物は、他のどんな果物にも似ていないのがいい。青虫が、「ザクロって、たぶんザクロ科ザクロ目ザクロなんやろな」と言った。事実、ザクロは独立した科に分類される。

それにしても、国産の柘榴が食べてみたい。その辺にいっぱい成っているのに... 気候的にも問題ないみたいだし、味もいいのに、なんで柘榴は商品化されないんだろう?

ところで、先日、ある人から私の撮る写真がなかなかいい、と褒めてもらったのに気を良くして、何となく「写真家の目」で風景を眺めつつ朝の通勤電車に乗っていた(単純!)。その日は空気の澄んだ、秋晴れの、朝日がきらきらした日だった。

電車がちょうど芦屋あたりを通り過ぎるとき、線路のそばの家の庭に生えた1本の大きな柘榴の木が見える。今ちょうど、その木に柘榴がたわわに実っている。その柘榴の実が、そのとき、まさに朝の太陽に照らされて、この世のものとは思えないほど美しく輝いていた。息が止まりそうなほど美しかった。

「写真家」の私は、これだっ!と思った。この一瞬。この輝き。こういうのを捕らえなければ!でも、その瞬間、すぐにそれは無理だということも分かった。その美しさを作り出した全ての条件を、もう一度揃えることは不可能だと悟った。この季節、この天気、電車の窓から見るというこの状況、温度、湿度、そして何より、上機嫌だった私の気分。これら全てが揃わなければ実現しない「美」なのだ。再生不可能。

生きることすべてが、きっとこんな感じなのだ。一瞬一瞬を大切に味わおう。

...なんか、あまりにもありふれた結論だけど(笑)。

12月 02, 2007

柚子がいっぱい!

母のお客さんから 柚子をいっぱいいただいた。住む人のいなくなった徳島の実家の庭に生えている柚子らしい。放っておいても、こうして毎年、健気に実をつけるのだそうだ。だから完全無農薬。太陽と雨と土だけに育てられた自然の恵み。決して無駄にはしたくない。そこで、果汁だけじゃなく、皮もパルプも全部使うことにした。何にしよう?マーマレード?それもいいけど、今年はオレンジピールならぬ、「ユズピール」に挑戦してみよう!
ということで、さっそく果汁を搾り取った。これは冷蔵&冷凍にして、鍋物や、サラダ、タイ料理の味付けなどに使う。柚子26個から、とれた果汁はごくわずか。ほとんどが皮と種なのだ。やっぱり皮を捨てたら勿体ない。柚子は捨てるところがないという。果汁はポン酢に、皮は料理の香りづけに、種は焼酎に漬けて美容液になるらしい。ということで、一応、種も置いておく。

皮をさらに、表皮とパルプ(薄皮と果肉の絞りカス)とに分ける。パルプの部分にも、繊維やわずかに残った果汁など、いろいろ栄養が詰まっていそうなので、捨てずに使う。砂糖で煮て、ペースト状にしよう。少し表皮も入れて。そして、今回のメインプロダクトである「柚子ピール」!こんなにたくさん材料がとれた。これを砂糖で煮詰めて、天日で乾かし、グラニュー糖をまぶせば、できあがり。「ざぼん漬け」みたいなものだ。

「陳皮」という漢方薬が風邪に効くように、きっと柑橘類の皮には何か風邪の予防になるようなものがあるに違いない。冬の間せっせとこの柚子ピールを食べよう。マーマーレードやオレンジピール・レモンピールなど、酸味・苦味が大好きだ。完成が楽しみ!

部屋の中は柚子の皮を炊く香りでいっぱい!気持ちいい。今日もその作業のつづき。今日は炊きあがった皮を天日に干す作業。いかなごのつくだ煮作りといい、こういう果物を加工する作業といい、こうやって、自然の恵みを、じっくり加工して保存食を作る作業は、私の何よりも好きな作業だ。こういうことをしているときが最も自分が「生きている」と感じる。

12月 01, 2007

桜の紅葉

大家さんちの桜。私は紅葉のなかで、桜の紅葉が一番きれいだと思う。今年は特に素晴らしい。

11月 24, 2007

冬支度

野に散らばる宝石は、野葡萄などの木の実ばかりじゃない。虫だってこんなに美しい。何という虫か分からないが、深い藍色のメタリックカラーの甲虫。人間の指が、象のように皺くちゃで、でっかいのに比べて、この小さな昆虫のなんと、まん丸で、つるつるで、美しいこと!(ちなみに、この親指は一体誰のでしょう?かなり年季の入った指。長年の風雪に耐えてきた手という感じがしますね。)



紅葉の写真は、昨日行った須磨寺で写したもの。桜に楓(かえで)、南京櫨(なんきんはぜ)。みんな一気に色づき始めた。毎日、電車から見る木々の色がどんどん変わっていく。


タマジも、もうすっかり冬仕様。毛皮も冬毛に生え変わった。昼は陽だまりを探して移動しながら居眠り。夜は人間と一緒に布団の中で寝るという毎日。

灯油を売りにくる音、お歳暮の宣伝、クリスマスに大掃除、年賀状... 忙しくなってきたぞ!

まずは、ようやく衣替えをして(今頃!)、ホットカーペットとストーブを出し、クリスマスツリーを飾ったところで、まずは満足。今週末はこれぐらいで上等上等。

10月 14, 2007

草の実

子どもの頃、野山をあてもなく歩き回るのが好きだった。その頃によく出会ったのがこれ。出会う度、息がつまるほど嬉しかった。こんな綺麗なものがあるだろうか!私が小さな頃から紫色に魅せられ続けたのも、この実のせいかもしれない。名前はノブドウ(野葡萄)。こんなネックレスがほしい。

9月 30, 2007

だし醤油

タマジが紹介しているのは、我が家のお気に入りのだし醤油。

四国は香川坂出の鎌田醤油製。

前に地元で有名な豆腐屋さんで、豆腐と一緒に買って帰って以来、すっかりファンになってしまった。

とにかく美味しい。
特に豆腐によく合う。
青菜のおひたしにも。

青虫など、ごはんにこれをかけるだけで食事が済んでしまうほど(いいのか?)。

おすすめです!

http://www.kamada-soy.co.jp/ 

9月 24, 2007

秋の気配?

上は、青虫の乗馬クラブに咲いていた萩。下は、同じく乗馬クラブに咲いていた葛。あたり一面、葛のいい香り。私が勝手に「葡萄の匂い」と読んでいる匂い。花の形も色も葡萄に似てるし。あと、おしろいばなも、夕方から夜にかけて良い香りを放っている。秋の虫はもうとっくに鳴いている。あとは気温だけ...

9月 15, 2007

カメちゃんとタマジ



                                                  
最近、カメちゃんの水槽を洗うとき、しばらくベランダを自由に散策させてやることにしている。しばらく日に当てると、甲羅がぺりぺりと剥がれて、つるっつるの美しいカメちゃんに! いつもタマジが密着尾行。

9月 08, 2007

赤ワイン

昨日は母の誕生日だったので、久々にワインを買ってきた。
なかなか美味しいワインに出会ったので、ちょっとご紹介。

GRAN STATUS というスペインの赤ワイン。850円。

ワインに詳しいわけでは全然ない。ただ、たまに偶然、安くて美味しいワインに出会うと嬉しくなってしまう。

前までずっと買っていたのは、
「王様の涙」という赤ワイン。これもスペイン。1本500円ぐらい。とにかく安いし、味もいい。でも、残念なことに最近見かけない。

で、仕方なく、そのあとしばらく続けて買っていたのは、Burl Wood という渋い味の赤ワイン。カリフォルニア産。これはそんなに安くない。といっても1本、千円ちょっとだけど(笑)。

ああ、それにしても、この GRAN STATUS は気に入ったな... しばらく続きそう。

9月 07, 2007

風土と服装

通勤時にいつも通り抜ける「お初天神」(March 26, 2007 の日記、「お初と徳兵衛」で紹介した)。 朝、北側の入り口から入っていくと、最近なにやらとても甘い香りがする。色っぽい春のかおり。何だろうと思って匂いの源を探ると、「右近の橘」と書かれた柑橘類の木が、白い可愛らしい花をいっぱい咲かせている。これだったんだ。それ以後、通るたびにこの可愛らしい花の放つ芳香を胸一杯にいただいて、大阪の灼熱地獄を乗り切るための一種の清涼剤にしている。

あれ? でも、たしか柑橘類の開花時期は5月~6月のはず。(May 13, 2007 の日記、「風薫る」参照http://shirochou.blogspot.com/2007_05_01_archive.html) 
なんで今頃咲いてるんだろう? いわゆる「狂い咲き」というやつかもしれない。あまりの暑さに、植物も狂ってしまったのか、あるいは、野垂れ死にしそうなほどの地獄の熱さの大阪の、せめて空気だけでも香しくとの、神さまの配慮か。
(上の写真は先日、携帯電話で撮ったもの。柑橘類の花のもっと綺麗な画像はこちら:http://yuiits.web.infoseek.co.jp/kigonatu/g1/index.html

とにかく、大阪の暑さは異常だ。エアコンの室外機からの熱風による人工的な暑さだと思う。これだけの人間が集まり、これだけのビルが建て込んで、全部の建物、全部の人間がエアコンをガンガンにかけていれば、こうなるのは当たり前だろう。緑なんてほとんどない。海も山もない。あるのは人間と建物だけ..... 無理もない。

この灼熱地獄の中で、それでもスーツにネクタイで歩いている人がいる。気の毒に思う。暑いのにそんな格好をしなければならないから気の毒なのではなく、そうまでして社会慣習に従おうとする従順さが気の毒なのである。そして、その気の毒な人たちのために、建物の中はいつも寒いほどエアコンが効いている。ちゃんと日本の夏らしい服装をした人たちにとっては、とんだ迷惑だ。夏だというのに、なぜか防寒具が必要なのだ。

スーツにネクタイは、明らかに日本の夏にそぐわない。もともとは寒い国の服装なのだから。衣・食・住などといった基本的な事柄は、やはり風土に合ったものを選ぶべきだと、つくづく思ったこの夏だった。

8月 26, 2007

それぞれのムーミン

ポニーのひづめの手入れをする青虫。ポニーといっても、かなり大きい。 この子の名前は「ムーミン」。(ムーちゃん、お尻だけ公開しちゃってごめんね。)

夏バテ気味のタマジ。でも、ヤモリを見つけると俄然やる気になる。ただし、前に何かに刺されて、左前足が恐ろしく腫れ上がって以来、虫にしろ、ヤモリにしろ、追いかけるけど、手は出さない。

残暑お見舞い申し上げます。

まだまだ暑い日が続く。暑くてブログも休みがち。タマジもバテている。涼しい場所を求めてふらふら~っと歩いては、すぐにゴロンと寝転ぶ。遊びにも熱が入らない。

しかし、そんなタマジを尻目に、青虫は遊ぶ遊ぶ。この夏は馬三昧。馬に乗り、馬の世話をし、馬に会いに行く毎日。 いちどなど、寝る前に布団の中でしみじみと言っていた。「馬がおらんかったら、今頃どんなにしょうもない毎日を過ごしとったやろ...」

私の子どものときの夏休みは蝶々の採集で満たされていた。そのために道具を揃え、図鑑で調べ、網と三角箱を持って捕まえ、標本にする。もう本当に夢中で取り組んだ。虫と草花が私のフィールドだった。それを手引してくれたのは父。

青虫の場合、その対象が馬であり、フィールドが厩舎であり、手引してくれたのが叔母(つまり私の妹)であるという違いだけで、結局同じパターンで夏を過ごしているんだな、と何だか安心したような、落胆したような、複雑な気分。

まあでも、何を通してでもいいから、人間社会以外との関わりも持っていてほしいと思う。人間が人間社会の中で独りで生きられないのと同様に、人間も、生態系の中で人類だけでは生きられないんだから。

私はといえば、この夏、またムーミン熱(青虫のポニーのムーミンではなく、トーベ・ヤンソンの方)が復活。読み直したりしていた。やっぱり目指すはムーミンママだな。彼女は本当に素晴らしい!母親として、妻として、いや、ひとりの女性として。まだまだ道は遠いけど。

8月 05, 2007

気づかなければ

月2回のペースで更新される、中村桂子さんの「ちょっと一言」(生命誌研究館サイト内)を楽しみにしている。今回のお話の中に、気になることが書いてあった。先日、彼女がある人に、「クマゼミが鳴き始めましたね」と話しかけたところ、相手はまったく蝉の声に気づいてなかった、という話だ。大阪では、今年は、蝉の当たり年?だとかで、とりわけ鳴声が大きい。それなのに、だ。

「自然があるとかないとか言いますけれど、実際のあるなしだけでなく、人々が気づくか気づかないかということも考える必要がありそうですね。気づかなければ、あってもないのと同じであり、それが続くとなくてもよいことになりますから。」 (中村桂子)

少し前、同じようなことを、他の所でも読んだような気がする。と思って、思い出してみたら、新美敬子さんという、猫の写真家の書いた本だった。

猫の写真を撮るのに、ロシアのとある街に行こうかどうか迷っていて、ロシアに赴任中のビジネスマンに、その街に猫がいるかどうか訊ねると、「ここでは野良猫は見かけない」との返事だったので、行くのを止めようかと迷ったが、いちかばちか行ってみると、ちゃんと野良猫はいた、しかも沢山いた、という話。

いつも何らかの目的に追われて街を歩いている人には、目的以外のものは存在しないも同然なのだ。特に、蝉の声や鳥の声、野良猫や蝶々の姿などは、感覚器官を素通りしてしまうものの代表かもしれない。それらに気がつくのは、よほど無目的に、ぼーっと歩いている輩なのだろう。それは、他ならぬこの私。

これではいけないと思いつつ、心のどこかで、これでいいという強い思いがのさばり続ける。私にとって、世界は人間だけじゃない。昆虫や、植物や、動物たちであふれている。その分、私は人間としての何かを犠牲にしてるかな?と、ちょっと不安になることもある。それが何かはよく分からないけど... もしかすると、それが私にとっての「気づいていない=存在しない」ことなのかもしれない。

7月 28, 2007

夏!

いつのまにか梅雨が明け、すっかり夏に。

セミが鳴き、百日紅(さるすべり)が咲き乱れ、タマジがのびている。大阪は連日、灼熱の地獄。でも、実はこの異常な暑さはけっこう好き。

朝、すでに相当な暑さで、道に人影はなく、セミだけがうるさく鳴いているようなとき、突然、子どもの頃の夏休みを思い出す。あの独特の雰囲気。時が止まったようなけだるさ。宿題など、やることは山積みなのに、それら全てを放っておいて、連日ひとりで、朝早くから近所に蝶々を取りに出かけていた。ひとりで蝶を求めて徘徊する夏の朝には、何となく甘美なムードがあふれていた。誰も知らない、私だけの楽しみ。木と、花と、蝶と、私だけの時間。なつかしい。

ところで、この度、別ブログの Thinking Women が完結いたしました。この話に興味を持ってくださった方がいて、その人に翻訳のまずい箇所などを適宜指摘していただき、ちょこちょこ訂正しながらアップしていきました。(まだ訂正が済んでいない章もありますが。) 

もし、読んでくださっていた方がおられましたら、また感想などお聞かせ下さい。コメント欄に書き込んでくださればと思います。翻訳で分かりにくいところなどありましたら、それもご指摘下さればと思います。どうぞ、よろしく。

7月 11, 2007

グリーン・チャツネ


写真は、コリアンダー(香菜)の花。ベランダに植えてある。こんなに可憐な花を咲かせるとは知らなかった。いつも、お店で、まだ花の咲いていない、ミツバのような姿のときにしかお目にかからないので。


コリアンダー、あるいは香菜、あるいはシャンツァイ、あるいはパクチー。 ちなみに、我が家での呼び名は「カメムシ」(匂いが似てる)。 このたび、わけあって、この香菜を大量消費する必要に迫られた。安かったのでつい買いすぎたのだ。そこで思い出したのが、インド時代によく作った「グリーン・チャツネ」(緑のソース)。作り方は簡単。

みじん切りにした香菜と、すりおろしたニンニク、たっぷりのレモン汁、塩、砂糖を混ぜるだけ。本来そこに、飛び上がるほど辛い青唐辛子のみじん切りも入れるのだが、あいにく日本では手に入らない。かわりに普通のシシトウを使ってもいい。たまに辛いのが混じってることがあるから、それを使えばなおいい。

この緑のソースは、揚げ物によく合う。てんぷらにもよく合うし、から揚げ類にも合う。味ががらりと変わるのだ。油っこいものでも、このソースがあればどんどんお腹に入ってしまう。あと、焼き魚や焼き鳥にもよく合う。料理がぐっとグレードアップしたような錯覚に陥る。冷凍しておけば結構保存もきくので、香菜を買いすぎたときは、レモンを買ってきて、これを作っておくと便利かも。でも、あんまり香菜を買いすぎる人なんていないかな...

7月 08, 2007

タマジの誕生日



7月7日七夕の日は、タマジの誕生日。とうとう満1歳になった。猫で1歳といえば、もう大人。タマジの成人、じゃなかった成猫のお祝いに、青虫の友達が来てくれた。いつもの阿修羅ちゃんと姫ちゃん。特に姫ちゃんは、タマジのことが大好き。3人で、「タマジのお誕生日会」が計画され、実行された。

まずは、タマジへのプレゼント。姫ちゃんは、音が鳴るネズミのおもちゃと、キャットフードをたくさん。阿修羅ちゃんは、コウモリやカニ、ネズミなどのフィギュアと、なんと手作り布団!そして、青虫は、本物の鳥の羽根を使ったリアルな小鳥。上の写真は、プレゼント一覧。下の写真は、阿修羅ちゃんにもらった布団で寝ているところ。ちゃんと枕を正しく使っているところがにくい。

みんなで一通り、それらのおもちゃで遊ばせ(タマジはちょっと引き気味だったが)、会食。唐揚げ、ポテトフライ、おにぎりというガキんちょ向けの定番メニュー。タマジにはなんと、明石の天然鯛!(ばあちゃんからのプレゼント)。その後、天気が良かったので、みんなで水遊びしたあと、ついでにタマジにもシャワー。びしょぬれになったタマジをみんなで笑って(ひどい...)、そのあと、ガキどもは勢いづいて学校の開放プールへと流れていった。

タマジにとっては嵐のような一日だったが、他の部屋に逃げたりしなかったところを見ると、まんざら嫌でもなかったのだろう。けっこう小さな子たちがわいわいやっているところに、一緒に居たがる。まあ、タマジの誕生日をいいように利用して、結局自分たちが遊んだわけだが、まあなかなか良い日になったのではないだろうか。私もタマジもくたくたになったけど。

6月 24, 2007

町と田舎を結ぶもの

車という文明の利器がとうとう我が家にやってきて、田舎と再び結ばれた。

まずは長年の懸案のお墓参りに家族みんなで行ってきた。車でないと行きにくい場所なのだ。父方の祖先に長年のご無沙汰を詫び、ついでに私は自分の生まれ育った田舎の山と田んぼに再会。ああ、やっぱり私はここの土に育てられたんだと実感した。やっぱり時々こうやって、ふるさとの風景を確認しに来るのはいいもんだなあ。

次に行ったのは、うちから少し行った田園地帯で開かれる朝市。地元の主婦たちが、共同で場所を借り、自分たちが作った野菜を安価で売っている。前から評判だけは聞いていた。でも、これも車がないと行きにくい場所だったのだ。とにかく野菜の味が違うらしい。ひとりひとりが愛情と誇りを込めて、手間暇かけて育てた野菜。しかも安い!野菜中心の我が家には、まさにうってつけ。早速、場所を探して行ってみた。

評判通りの、手作りの、とても感じの良いお店だった。作った人の顔写真と名前が、ひとつひとつの野菜に記されている。中には、私の高校時代の親友のお母さんの名前も!(それは前から知っていた) やはり、親友のお母さんの作った野菜を中心に、人参、胡瓜、茄子、紫玉葱、トマト、キャベツ、ズッキーニ(!)、それから小粒の枇杷など、持ちきれないほどたくさん買って帰る。なのに、安い!これも車のおかげ。

帰って、早速味わってみた。まずは、トマト、茄子、ズッキーニを使って、我流「ラタトゥイユ」(南プロバンス風、夏野菜のトマト煮込み)を作ってみた。いつもはブイヨンを入れるのだけれど、今回はちゃんと味のある野菜たちなので、野菜そのものの持つ「だし」を信頼して、ブイヨンは入れなかった。

果たしてそれは正解だった。もうめちゃくちゃ美味しい!しっかりと野菜からだしが出ている。ひとつひとつの野菜に、ちゃんとそれぞれの個性がある。ああ、なんという幸せ! 胡瓜も、ちゃんと胡瓜の味がして、いつも買っているコープの胡瓜と食べ比べてみたら、天と地ほどの差があった。塩で揉むだけで立派な一品になる。枇杷も大満足の濃い味だった。

大量生産された水くさい野菜・果物しか手に入らない今日このごろ、もう植物本来の個性は味わえないと半ば諦めていた。でも、近くで、ちゃんと滋味豊富な野菜が作り続けられていたのだ。なんと偉大な主婦たちだろう!感謝感謝。これからもずっと続けてほしい。

環境問題への配慮から、というか、それ以前の問題として、自分が自動車免許を持っていないので、これまで車なしでやってきたけれど、こういう喜びを享受するためには、やはり車は必需品なのかもしれない。私もそろそろ免許取ろうかな... あるいは専属の運転手を探すかな...(笑)

果実染め

写真は、もちろん果実とは関係なくて(笑)、ただの、干した布団の中で休むタマジ。表情がもうすっかり大人に。来月はじめての誕生日を迎える。1歳になればもう立派な大人だ。

それにしても、快適な場所を見つける猫の能力には本当に感心してしまう。「布団のトンネル」の中は家の外でありながら涼しくて、風も通って、しかも安全。私も小さくなってタマジの横に入りたい!

さて、いつもチェックするスーパーの「見切り品」コーナー。近ごろ主役は、苺から梅に変わっている。上等な青梅が1kg、300円で出ていたので早速買って帰って、シロップ漬けにした。

梅を洗い、「へそのゴマ」みたいなヘタの部分を取り除いて、いったん冷凍庫で凍らせる。ガラス瓶に、凍った梅と氷砂糖を交互に入れ、何日か置いておくと、濃厚な甘みと酸味と芳香をあわせ持った「梅シロップ」が出来上がる。これを少し薄めて、氷を入れたら、ビタミンたっぷりの梅ジュースのできあがり。これからの季節に最適の飲み物だ。梅に感謝。

それと、今年はもうひとつ新しい果実漬けを作ってみた。これは妹の提案で、結果はまずまず成功。何かというと、家の前の立派な桜の木(たぶんソメイヨシノ)に成った、小粒のサクランボを使ったリキュール作り。作り方は簡単で、桜の実、氷砂糖、ウォッカ(何でもいい)をガラス瓶に入れて置いておくだけ。桜の実は、赤黒く熟したものだけを使う。そのまま食べればかなり苦い。でも、リキュール漬けにすると、苦みが和らぎ、桜の芳しい香りと深い赤紫色がウォッカに移って、素晴らしいお酒になる。そう、ちょうど「桜の精でお酒を染める」という表現がぴったりくる感じ。満足満足。

ちなみに、青虫は、これを「桜ウォッカ」として売り出そう!と言っている。競馬好きにはたまらない記念品になるだろうと。(※競馬好きにしか分からない話題)

ヤマモモが成ったら、こんどはウォッカの山桃染めをやってみたいと思う。

果実酒好きには、今はとてもいい季節。

6月 16, 2007

幼なじみ

                                                                


















3歳まで、田んぼや畑に転がされていた私にとって、この花は、ナズナやオオイヌノフグリなどと並んで、幼い頃からの友達のようなもの。何ともいえない親しさを感じる。小さな私と一緒に何となくそこに生えていて、小さな子の目を楽しませ、美への扉を開いてくれた貴重な花だ。

荒れた草地にしか生えないので、最近めったに見かけないのだが、先日久しぶりに再会した。もう嬉しくて嬉しくて。今も変わらず可憐な姿で咲いていた。

この花に、私独自の名前をつけたいと思う。「ニワゼキショウ」なんて似合わない。さしあたっては、「星草」なんてどうだろう... 咲いた花と丸いつぼみが草むらの中で入り乱れた様子は、まるで夜空で星が瞬いているように見えるから。それに、この花の視覚的イメージは、秋の虫の音を思わせるし、秋の虫の音は、やっぱり星の瞬きを思わせるから。

ついでに言うなら、ナズナは「鈴草」、オオイヌノフグリ(酷い名前!)は「空草」がいいと思う。

なんて。今朝はちょっと浪漫ちっくに始めてみました。

6月 09, 2007

消えていく人参

最近どうも人参の減りが早すぎると思ったら、やっぱりそうだった。乗馬を始めた2人のガキども(青虫とその叔母)が、こっそり冷蔵庫からかすめ取り、せっせと馬たちに貢いでいたのだ!健康に気を遣って、うちではいつも少し割高の「減農薬人参」を買っている。それを、馬の体にもいいからと、勝手に貢いでいたのだった。とんでもない。

猫用にも、なるべく近くで獲れる天然魚や、薬害の少なそうな国産キャットフードを買ったりしてるので、人間と猫だけでも、やたらエンゲル係数が高いところへもってきて、この上さらに馬までなんて絶対に無理っ!(カメちゃんとクワガタは、あんまりお金はかからない)

ということで、今朝は持って行きたいという2人の希望を厳しくはねのけ、人参を守りぬいた。それにしても、馬はほんとに人参が好きで、その執着心たるや、見ていて可笑しくなるほど。猿にバナナ、馬に人参、猫に鰹節、私にきつねうどん... 食べ飽きるということは決してなさそうだ。

6月 08, 2007

高貴な人

先日の朝、いつものように出勤前の顔の塗装を施すべく、駅のトイレに寄った。すぐに空気がいつもと違うことに気がついた。何ともいえず爽やかな香り。空気が清められた感じ。そして、すぐにその理由が分かった。洗面台の隅っこに、小さな植木鉢が置いてあり、そこに私の大好きなスイカズラがひと蔓、丁寧に植えてあったのだ。この何年かで、どんどん好きになってきたこの花。まさかこんな場所で出会えるとは!

私はこれを置いてくれた、誰か分からない素敵な人に、言いようのない親しみを感じた。心から感謝もした。一体だれなんだろう?おそらくは、ここのトイレを掃除する清掃員のおばちゃんか、あるいは、ここを日常のトイレとして使っている駅の売店のおばちゃん、あるいは、駅にひとりだけいる女性職員かもしれない。何にしても、素晴らしい思いつきだ。人知れず、さりげなく、このようなことができる人は、本当の意味で高貴な人だと思う。

切ってきて花瓶に差すのではなく、鉢植えにしてあげているところが、またいい。

※スイカズラ(得も言われぬ強い芳香を放つ蔓性の花。実もかわいい)
http://yuiits.web.infoseek.co.jp/kigonatu/c2/suikazura.html

6月 01, 2007

色っぽい季節

雨が多くなってくるこの季節、何かそわそわしてしまう。というのも、魅力的なものが次々に目に入ってくるからだ。野苺が赤く色づき始め、山桃が実り、スーパーには梅やらっきょうが出回る。でも、なんといっても私にとって一番わくわくするのは、たわわに実った枇杷!お店で売ってる枇杷ではなくて、近所にひとりでに生えた持ち主不明の枇杷の木に、小さなオレンジ色の実がいっぱいなってるやつ。ああ、もういてもたってもいられない、という気持ちになる。

その自生の枇杷の木の実と、お店で売ってる枇杷の実は、別物といってもいいぐらい味がちがう。お店のは大きくて色も形もいいんだけど、味気ない。自生のは小さくて、食べるところがほとんどないのが残念だけど、本当に枇杷の匂いがする。酸味も甘みもびっくりするほど強い。近所の目があるから、持ち主不明とはいえ、いい大人があんまり堂々と取れないけど、でもこの週末あたり、早朝を狙って取りに行こう。楽しみ!

花もすごい。特に匂いの強い花がこの季節、きわだって多いような気がする。薔薇はもちろんのこと、前に書いた蜜柑の花、くちなし、そして私の大好きなスイカズラ。夕方から夜にかけて、これらの花々が妖艶な匂いを放つ。空気には湿気が満ちていて、よく匂いを通すし、なんとも色っぽい季節だ。

最近、マンゴーをよく食べる。日本のは高くて手が届かないから、たいていはメキシコ産のアップル・マンゴー。赤くて大きいやつ。ライチも、最近はメキシコ産のが出回り始めた。台湾のに比べて色は薄いけど、味はなかなかのもの。これら、外国産の果物だけど、なんとなく今の季節によく似合う。

あと、この季節の楽しみは、スーパーの「見切り品コーナー」を覗くこと。たいてい安くなった苺が出ている。それを数パック買って帰って、苺ソースを作る。砂糖を加えて煮るだけ。これを煮るときの匂いがもうたまらない!でも、ちょっと気になるのは、さいきん苺が古くなっても、あんまり傷まないこと。自然の苺ならもっと傷むはずなのに。何か薬でもかけてあるのかな、とちょっと心配になる。

何にしても、梅雨に向かうこのじめじめした季節は嫌いでない。というか、むしろ大好き。

5月 26, 2007

「別格の箸さばき」?


久々に青虫ネタ。 ただいま小学校4年生。習う漢字も増えてきて、宿題を全然やらない青虫は、漢字がものすごく苦手。でも、本(主に漫画)をよく読むだけあって、へんに語彙が豊富。というか、へんな語彙が豊富。 国語の授業で、最近習った漢字がずらっと書かれた紙に、それぞれの漢字を使った例文を自分で考えるという課題があるらしい。作った例文から、その子の日常生活がうかがえるので面白い。青虫の作った例文を見て、いつも大笑いしてしまう。いや、むしろ心配するべきなんだろうか。

以下、ある日のその紙から抜粋。


課題: 青虫の作った例文

「願」: かなわぬ願い (これはまとも)

「最」: 最も小さい (この辺まではいい)

「初」: 最初からダメ (なんかネガティブ...)

「散」: かみの毛が散っていく (なんで髪の毛?)

「別」: 別っかくのはしさばき (何じゃこれ?)

「望」: よく望は身をほろぼす 
     (ここで担任の先生のコメントが入る。
       「よくこんな言葉知ってるね...」 ※「... 」がミソ)

「塩」: トマトはときどき塩からい (そうか?)

「以」: おまえはクズ以下だ (えっ!?)

「印」: 悪人の印 (別に「悪人」でなくても...)

「付」: 子もんが付いている (「指紋」のつもり)

「説」: 説明がふかんぜん (ネガティブ...)

「仲」: 仲直りなんかしない (「する」でもいいのに...)

「差」: 二馬身差 (たぶん先生には意味不明)

「季」: 季語が入ったはいく (妙に博識。でも誤り)

「節」: サクラの季節  (これはまとも)


相変わらず面倒臭がりで、お風呂のとき洗髪をいやがる。ある日。

「洗わんかったら、臭いし、友達に嫌がられるで」

「みんな、わんこぐらい臭いで」
(注:いまだに一人称は「わんこ」。これもちょっと心配...)

「でも、臭くない子もおるやろに」

「そんなん子どもらしくないねん。大人は臭いのを気にする。子どもは臭いのを誇りにする。そう覚えておいてほしい。」

と言い残して出て行ってしまった。ほんまにもう...

※写真は本文とは関係ありません。ただタマジの写真をアップしたかっただけ。ブサイクだけど、野良猫っぽくて愛らしい一枚でしょ?

5月 13, 2007

風薫る


外を歩いていると、どこからか良い香りが漂ってくる。いつも同じ匂いだ。職場の近くでも、家の近所でも。何だろう何だろうと、ずっと気になっていた。キョロキョロしながら、一生懸命その香の源を探ってみたら、いつも必ず近くに何かミカン科の木があって、満開の花を咲かせていることが分かった。ミカン科の木が、こんなに強い芳香を放つとは。こんなに身近な果物なのに、今まで全然気がつかなかった。

写真は、朝の清々しい空気の中で、さっそく野外観察を始めているタマジ。でも、人間に見られていることや、カメラを向けられていることに気がつくと、すかさず、くねくね、すりすり、おちょけて見せる。(次の写真) 動物写真家の岩合光昭さんによると、これはオス猫の特徴なのだそうだ。一種の自己顕示欲? それとも照れ?

5月 10, 2007

家をリニューアル

ゴールデンウィークのあいだに色々と大きな変化があった。

まずは、家の中の大々的な模様替え。青虫の、自分の部屋が欲しいとの要望に応えるためと、このたび同居することになった妹の居場所を確保するためとで、ちょっとした引越並みの大仕事になった。青虫はこの日のために、この一年間、誕生日プレゼントも、クリスマスプレゼントも返上していたので、どうしてもやらざるを得なかった。前々からの約束だったのだ。

とにかく疲れた。こんな本格的な肉体労働は本当に久しぶり。おかげで各人、ひと部屋ずつもらって、新しい生活が始まった。でも、青虫は相変わらず私の部屋で寝る。なんでも、「夜光人間」が襲ってくるからだそうだ。まあ、大人でも、UFOにさらわれるのが怖くて、ひとりで寝たくない人がいるぐらいだから(笑)、9歳児がひとりで眠れないのは仕方ないか。

それから、妹と青虫が5月から乗馬を習うことになった。競馬好きが高じて、とうとう自分たちが乗ることに! 要するに馬が好きなのだろう。妹なんて、馬糞の匂いを嗅ぐと、精神が安定するらしいから重傷だ。乗馬といっても、ただ乗るだけではないらしい。乗ったあとの馬の世話もけっこう大変だそうだ。なにしろ体が大きいだけに、世話も大変。下手すると蹴られて命を落とす。これまた、新しい世界に突入だ。一度私も見学に行ったが、たしかに可愛いし、頭も良さそう。ホースセラピーというのがあるぐらいだから、人間と心が通じ合う動物なのだろう。でも月謝が高い!ということで、最近ちょっとさぼり気味のピアノの方は止めてもらうことに。

さらに、このたび、とうとう車を買うことになった。今までずっと車なしで生活してきたが、青虫も大きくなって行動範囲も広がってきたし、運転手(妹)もいることだし、スポンサー(母)も乗り気だし、思い切って。環境問題への異常な関心から、これまで頑なに車を拒否してきた青虫も、乗馬に行くのに必要となると、あっさり折れた。(なんだ、その程度のこだわりだったのか!笑) これでまた生活が変わる。田舎へもドライブに行ける。タマジをどこかへ遊びに連れて行くこともできる(タマジがそれを楽しんでくれるのかどうかは別として...)。ちょっと楽しみ。

私だけの深い体験もあったりして、この数週間は本当に充実していた。こういう調子のいい時期のあとには、必ず調子の悪い時期が来るような気がして、ちょっと怖い。

4月 21, 2007

緑という色

昨日、小学校のPTAの何ちゃらに出席するため、仕事を早退して久しぶりに真っ昼間の電車に乗った。線路沿いの新緑のきれいなこと!! もう息が止まりそうなほど艶々、きらきら、若葉が輝いていた。クスノキなどの常緑樹も、やはりこの時期には一斉に若葉を出す。そのクスノキの若葉が昨日はとりわけ綺麗に萌えていた。

昨日、これまた久しぶりに若い女の子とお昼を一緒に食べた。彼女に会って、うちの家の裏のクスノキを思い出した。何年か前、塩をたっぷり含んだ台風に激しく吹かれて、すっかり塩枯れしていたこのクスノキ、しばらくもうだめかと心配していたのだが、長いことかかってみごと回復し、再び瑞々しい若葉を芽吹き始めた。今ではもうすっかりもとどおり。この女の子も、また新しい葉っぱを出し始めたようだ。昨日、若葉のような顔をしていた。そういえば、きれいな緑色のビーズのネックレスもしていたっけ。

緑というのは不思議な色だ、と染織家の志村ふくみさんが書いている。草木のイメージはまず何よりも「緑」であるにもかかわらず、この緑という色だけは、草木の染液から直接染め出すことが出来ない色なのだそうだ。藍からとれる青と、キハダやクチナシからとれる黄色を掛け合わせることによってしか得られないのだとか。この重大な事実をずっと考え続けた結果、彼女は次のような結論に達している。

「やはり緑は生命と深いかかわり合いをもっていると思う。生命の尖端である。生きとし生けるものが、その生命をかぎりなくいとおしみ、1日でも生の永かれと祈るにもかかわらず、生命は一刻一刻、死にむかって時を刻んでいる。とどまることがない。その生命そのものを色で表したら、それが緑なのではないだろうか。

たとえ植物から葉っぱを絞って緑の液が出ても、それは刻々色を失って、灰色がのこるばかりである。移ろいゆく生命の象徴こそ緑なのである。」
志村ふくみ著 『色を奏でる』(ちくま文庫)より

新生児のことを嬰児(みどりご)と呼ぶのは、やはり、「みどり=命の象徴」ということから来ているのだろうか、というようなことも書いてある。たしかに、植物が「生きている」ときにしか現れない「緑」というこの色は、生命の色としてふさわしい気がする。昨日、電車の窓から、萌える若葉を見ていて確かにそう実感した。

4月 16, 2007

ビーズ細工


大学のときの同級生が脱公務員をして、家でアクセサリー作りを始めた。去年初めて彼女の展示販売会に行って、すっかり気に入ってしまい、以来、彼女の作品ばかり身につけている。彼女の家まで行くのは遠いので、いくつかの品をまとめて郵送してもらい、その中から気に入ったのを選び、残りを送り返すという方法をとっている。今回その2回目を送り返したところ。

ビーズ細工をこよなく愛する私にとって、これは本当に幸せな出会いだ。貴金属や宝石などは、自分とは別世界のものだと思っているので、あまり身につけたいとは思わないが、ビーズは違う。お店で材料など見かけると、全部欲しくなる。実際、何度かネックレス作りにトライしたりもした。小さい頃も、かなり作った。ビーズ細工のトンボ、蝶々、指輪などなど... あの豊富な色のバリエーションと、独特の質感、形。もう見ているだけで、わくわくする。

前回は、私と妹の分のほか、青虫のピアノの先生へのお歳暮用にも購入し、喜ばれた。今回は、徐々に広がりつつあるファン(私がつけているのを見て、他の人も買いたくなった)のために、送ってもらった作品を行商人のごとく持って回った。口コミで、確実に顧客が広がっている。

まずは、近所の友達の家に持っていき、じっくり品選び。うちでは、タマジが大喜びしてしまう(玉状のものが大好き)ので、広げられないのだ。ひとつひとつ胸に当てながら、互いに評し合う。ああ!この日曜日の至福の時間!(小さな鏡の中で、いきなり皺くちゃばばあに遭遇してしまったのは、実はこの時だった。※「透視術」参照) それぞれ、気に入ったのをいくつかにしぼり、同封の伝票に品名・代金を書き入れて、一段落。とにかく安いので、安心して買える(笑)。そのあと、職場にも持って行って、大好評。

この方式、信頼関係がないと出来ないが、なかなか良いやり方だと思う。このビーズ細工のほか、もっと前から愛用しているものとして、友達の弟さんが脱サラして、北陸の実家で作り始めた「無農薬ブルーベリー」がある。これは特に、私の母がすっかり気に入ってしまっており、自宅用・贈答用として活用中。こんな風に、商業主義から外れた、知り合いの作る品々で、もっともっと生活を固めていきたいと思う。

4月 13, 2007

猫力

タマジのお気に入りスポットのひとつ。ここで、鳥や散歩中の犬を観察する。カラスもスズメも子育て中で、ベランダに撒いた古米をタマジがいない間にせっせと食べに来る。町には珍しく、ウグイスが早朝から夕方まで、一生懸命鳴いている。 コゲラも見かける。


空を行き交う鳥をいちいち目で追うタマジ。この細いスペースで、くねくね、すりすり転げまわるのだから、見ていられない。(ここは3階!) まあ、そのうち落ちるだろう。

学校関係の人にとっては、超多忙なこの時期、こんなのんびりした日記をさらして申し訳ないが(というか、学校関係の人は今、このサイトなど見てないだろうな)、確定申告が終わり、月次作業もようやく追いついてきて、私の周りは「ちょっと一息」ムード。

ただ、うちの「ニート」は、あれからまもなくニートでなくなり、しかも帰宅が連日9時過ぎという過酷な勤務に就いてしまい、毎日の暮らしは相変わらずあわただしい。でも、なんとなく気分はのんびり。やはり猫の力か。

4月 09, 2007

透視術

ふだん忙しくてあまり鏡をじっくり見ないのだが、たまに明るいところで、鏡に映った自分を間近に見たりすると、ぎょっとする。いつのまにか、顔にくっきりと深い皺が刻まれているのだ。 先日、友達の家で自分の顔を見てびっくりした。この皺くちゃのおばちゃん、一体だれ!? 自分の頭の中では、自分のイメージは若い頃のままなのだ。ふだん鏡を覗くときは、無意識的にシミや皺など無視しつつ、鏡に映った現実の顔のなかに、若い頃の自分を透かして見ている気がする。だから、ちゃんと映らない鏡を一瞬眺めるだけのような生活をしていたのでは、いつまでたっても現実を知らないままなのだ。

自分にかぎらず、昔から知っている顔というのは、そういう風にして見ることが多い。学生時代からの友達に会ったときによく思う。今の彼ら・彼女らがどうであれ、その顔は学生のときのままなのだ。無意識のうちに、その顔の中の「昔と変わらない要素」のみを取り出して見てしまうのだろう。家族同士など、もっとそうだ。私にとっての妹のイメージは幼い頃のままだし、母だって、はた目にはもう立派な老女だが、私にとっては若いときのまま。青虫だって、初対面の人にとっては、口ばかり達者な生意気盛りの9歳の少女かもしれないが、私とっては、彼女のふとしたときの表情の中に、赤ちゃん時代の面影が今でも透けて見えることがある。

相手をずっと前から知っているということは、なかなか重要なことなのだなあと思う。結婚生活にしても、新婚時代にじっくり眺めた相手の顔の初々しいイメージは、きっと一生保存されるのだろう。そこに、長く連れ添うことの良さというか、秘訣があるのかもしれない。人にかぎらず、人が接するもの、たとえば動物や植物、村や街など、何でもそうだろうと思う。

でも、待てよ。この考え方を、逆に時間を遡る形で応用できないだろうか。つまり、出会ったばかりの人の、若い頃、幼い頃の顔を、時間を遡って透視するのである。そのためには色々話したり、一緒に過ごしたりする必要がある。そうして、その人の「原形」みたいなものを徐々に明らかにしていく。その人の現在の顔の中に、若い頃の顔を見つけるのだ。そうすると、相手のイメージ、相手との関わり方にぐっと厚みが増す気がする。一種の「透視術」。そんな能力をぜひ身につけたいな。

それよりまず、自分の皺を、無視せず、ちゃんと見えるようにする方が先か?(笑)