4月 21, 2007

緑という色

昨日、小学校のPTAの何ちゃらに出席するため、仕事を早退して久しぶりに真っ昼間の電車に乗った。線路沿いの新緑のきれいなこと!! もう息が止まりそうなほど艶々、きらきら、若葉が輝いていた。クスノキなどの常緑樹も、やはりこの時期には一斉に若葉を出す。そのクスノキの若葉が昨日はとりわけ綺麗に萌えていた。

昨日、これまた久しぶりに若い女の子とお昼を一緒に食べた。彼女に会って、うちの家の裏のクスノキを思い出した。何年か前、塩をたっぷり含んだ台風に激しく吹かれて、すっかり塩枯れしていたこのクスノキ、しばらくもうだめかと心配していたのだが、長いことかかってみごと回復し、再び瑞々しい若葉を芽吹き始めた。今ではもうすっかりもとどおり。この女の子も、また新しい葉っぱを出し始めたようだ。昨日、若葉のような顔をしていた。そういえば、きれいな緑色のビーズのネックレスもしていたっけ。

緑というのは不思議な色だ、と染織家の志村ふくみさんが書いている。草木のイメージはまず何よりも「緑」であるにもかかわらず、この緑という色だけは、草木の染液から直接染め出すことが出来ない色なのだそうだ。藍からとれる青と、キハダやクチナシからとれる黄色を掛け合わせることによってしか得られないのだとか。この重大な事実をずっと考え続けた結果、彼女は次のような結論に達している。

「やはり緑は生命と深いかかわり合いをもっていると思う。生命の尖端である。生きとし生けるものが、その生命をかぎりなくいとおしみ、1日でも生の永かれと祈るにもかかわらず、生命は一刻一刻、死にむかって時を刻んでいる。とどまることがない。その生命そのものを色で表したら、それが緑なのではないだろうか。

たとえ植物から葉っぱを絞って緑の液が出ても、それは刻々色を失って、灰色がのこるばかりである。移ろいゆく生命の象徴こそ緑なのである。」
志村ふくみ著 『色を奏でる』(ちくま文庫)より

新生児のことを嬰児(みどりご)と呼ぶのは、やはり、「みどり=命の象徴」ということから来ているのだろうか、というようなことも書いてある。たしかに、植物が「生きている」ときにしか現れない「緑」というこの色は、生命の色としてふさわしい気がする。昨日、電車の窓から、萌える若葉を見ていて確かにそう実感した。

4月 16, 2007

ビーズ細工


大学のときの同級生が脱公務員をして、家でアクセサリー作りを始めた。去年初めて彼女の展示販売会に行って、すっかり気に入ってしまい、以来、彼女の作品ばかり身につけている。彼女の家まで行くのは遠いので、いくつかの品をまとめて郵送してもらい、その中から気に入ったのを選び、残りを送り返すという方法をとっている。今回その2回目を送り返したところ。

ビーズ細工をこよなく愛する私にとって、これは本当に幸せな出会いだ。貴金属や宝石などは、自分とは別世界のものだと思っているので、あまり身につけたいとは思わないが、ビーズは違う。お店で材料など見かけると、全部欲しくなる。実際、何度かネックレス作りにトライしたりもした。小さい頃も、かなり作った。ビーズ細工のトンボ、蝶々、指輪などなど... あの豊富な色のバリエーションと、独特の質感、形。もう見ているだけで、わくわくする。

前回は、私と妹の分のほか、青虫のピアノの先生へのお歳暮用にも購入し、喜ばれた。今回は、徐々に広がりつつあるファン(私がつけているのを見て、他の人も買いたくなった)のために、送ってもらった作品を行商人のごとく持って回った。口コミで、確実に顧客が広がっている。

まずは、近所の友達の家に持っていき、じっくり品選び。うちでは、タマジが大喜びしてしまう(玉状のものが大好き)ので、広げられないのだ。ひとつひとつ胸に当てながら、互いに評し合う。ああ!この日曜日の至福の時間!(小さな鏡の中で、いきなり皺くちゃばばあに遭遇してしまったのは、実はこの時だった。※「透視術」参照) それぞれ、気に入ったのをいくつかにしぼり、同封の伝票に品名・代金を書き入れて、一段落。とにかく安いので、安心して買える(笑)。そのあと、職場にも持って行って、大好評。

この方式、信頼関係がないと出来ないが、なかなか良いやり方だと思う。このビーズ細工のほか、もっと前から愛用しているものとして、友達の弟さんが脱サラして、北陸の実家で作り始めた「無農薬ブルーベリー」がある。これは特に、私の母がすっかり気に入ってしまっており、自宅用・贈答用として活用中。こんな風に、商業主義から外れた、知り合いの作る品々で、もっともっと生活を固めていきたいと思う。

4月 13, 2007

猫力

タマジのお気に入りスポットのひとつ。ここで、鳥や散歩中の犬を観察する。カラスもスズメも子育て中で、ベランダに撒いた古米をタマジがいない間にせっせと食べに来る。町には珍しく、ウグイスが早朝から夕方まで、一生懸命鳴いている。 コゲラも見かける。


空を行き交う鳥をいちいち目で追うタマジ。この細いスペースで、くねくね、すりすり転げまわるのだから、見ていられない。(ここは3階!) まあ、そのうち落ちるだろう。

学校関係の人にとっては、超多忙なこの時期、こんなのんびりした日記をさらして申し訳ないが(というか、学校関係の人は今、このサイトなど見てないだろうな)、確定申告が終わり、月次作業もようやく追いついてきて、私の周りは「ちょっと一息」ムード。

ただ、うちの「ニート」は、あれからまもなくニートでなくなり、しかも帰宅が連日9時過ぎという過酷な勤務に就いてしまい、毎日の暮らしは相変わらずあわただしい。でも、なんとなく気分はのんびり。やはり猫の力か。

4月 09, 2007

透視術

ふだん忙しくてあまり鏡をじっくり見ないのだが、たまに明るいところで、鏡に映った自分を間近に見たりすると、ぎょっとする。いつのまにか、顔にくっきりと深い皺が刻まれているのだ。 先日、友達の家で自分の顔を見てびっくりした。この皺くちゃのおばちゃん、一体だれ!? 自分の頭の中では、自分のイメージは若い頃のままなのだ。ふだん鏡を覗くときは、無意識的にシミや皺など無視しつつ、鏡に映った現実の顔のなかに、若い頃の自分を透かして見ている気がする。だから、ちゃんと映らない鏡を一瞬眺めるだけのような生活をしていたのでは、いつまでたっても現実を知らないままなのだ。

自分にかぎらず、昔から知っている顔というのは、そういう風にして見ることが多い。学生時代からの友達に会ったときによく思う。今の彼ら・彼女らがどうであれ、その顔は学生のときのままなのだ。無意識のうちに、その顔の中の「昔と変わらない要素」のみを取り出して見てしまうのだろう。家族同士など、もっとそうだ。私にとっての妹のイメージは幼い頃のままだし、母だって、はた目にはもう立派な老女だが、私にとっては若いときのまま。青虫だって、初対面の人にとっては、口ばかり達者な生意気盛りの9歳の少女かもしれないが、私とっては、彼女のふとしたときの表情の中に、赤ちゃん時代の面影が今でも透けて見えることがある。

相手をずっと前から知っているということは、なかなか重要なことなのだなあと思う。結婚生活にしても、新婚時代にじっくり眺めた相手の顔の初々しいイメージは、きっと一生保存されるのだろう。そこに、長く連れ添うことの良さというか、秘訣があるのかもしれない。人にかぎらず、人が接するもの、たとえば動物や植物、村や街など、何でもそうだろうと思う。

でも、待てよ。この考え方を、逆に時間を遡る形で応用できないだろうか。つまり、出会ったばかりの人の、若い頃、幼い頃の顔を、時間を遡って透視するのである。そのためには色々話したり、一緒に過ごしたりする必要がある。そうして、その人の「原形」みたいなものを徐々に明らかにしていく。その人の現在の顔の中に、若い頃の顔を見つけるのだ。そうすると、相手のイメージ、相手との関わり方にぐっと厚みが増す気がする。一種の「透視術」。そんな能力をぜひ身につけたいな。

それよりまず、自分の皺を、無視せず、ちゃんと見えるようにする方が先か?(笑)