9月 28, 2010

ひかりをたべる

日曜日、高熱のサナギをばーちゃんに託して(なんという薄情な母親!)、朝早くから京都の妹のところに行ってきた。1歳の甥っ子と3人で大原までドライブ。目的は朝市。野菜を仕入れに。

行きの車のなか。チャイルドシートに縛られた甥っ子の相手をすべく、私も後部座席に座った。ごきげんさんの甥っ子。なぜかずっと車の天井を見ている。日光が何かに反射して、天井に七色に光るひし形を作っていたのだ。それが行きつ戻りつするのを甥っ子は必死で目で追っている。

私がそのひし形を指で刺す真似をすると大喜び。そして、今度はその七色の光をそうっと摑む真似をして、それをそうっと甥っ子の手のひらに乗せてやった。

すると、なんと!甥っ子は手のひらに乗っている(はずの)七色の光を、そうーっと自分の口まで運び、遠慮がちに「はうっ」と食べたのだ!そして、極上の笑顔を私に向けた。

何という美しい瞬間だったろう!まるで何か重要な儀式のようだった。まだ何も話せない1歳の子が、美しい七色の光を食べて美味しかったと微笑んだ。このことを、私は一生わすれない。

思わず、宮沢賢治のあの有名な序文を思い出した。

「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。(中略)わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」

(全文はこちら→『注文の多い料理店』序

9月 25, 2010

扱いづらい...

38度台後半の熱でフラフラしているサナギを送り出したところ。梅田で友達と約束があるらしい。前々からみんなで練った計画なので、今さら風邪でドタキャンなんて絶対の絶対にできないらしい。

昨日、学校の体育祭で、その前から体調を崩しかけていたサナギは、かなり無理をした様子。案の定、昨日の夕方から喉の痛みが始まり、夜から熱が出始めた。今朝起きたら見事に高熱。絶対安静の状態。普段の学校の日なら、「やったー!」といって即、休むだろう。

でも、今回は自分達で決めた遊びの計画。しかも、テーマパークが好きでない自分のために、みんなに行き先を変更してもらったらしい。今日のために服や靴まで新調してあったのだ。今日だけは絶対に外せない。だから風邪の前兆が見えた昨夜から、サナギは私にしっかり釘を刺してきた。「高熱出てもぜったい行くから!」

こういうとき、本当にどうすればいいんだろう。保護者としては絶対に行かせるべきでない。悪化するのが目に見えていて、行かせる親がどこにいるだろう... ここにいる。行かせてしまった。

なんでそこまでして行きたいのだろう。どうやら、どうしても遊びたいからというのではなく、今日ちゃんとクリアしておかないと、のちのち学校での人間関係がしんどくなるから、なのだそうだ。さしずめ、「仕事のために、高熱にもかかわらず付き合いゴルフに出かけるサラリーマン」というところか。たしかに、学校というところは会社に似ている。(って、会社勤めしたことないけど...笑)

それに、特に最近、私が保護者づらして自分を保護しようとするのがうっとおしいらしい。あからさまに嫌な顔をする。でも、結果がひどいことになったら責任とるのはやっぱり保護者。あさのあつこの著作にも再三出てくるけど、ほんと、中学生って難しい。大人と子供が「まだら同居」しているというのか。扱いづらい...

まあ、中学生自身も色々と大変なんだろうな。

とにかく、どうか生きて帰ってきますように。

サナギの父親の名前はサンスクリット語で「月」という意味だ。
空からちゃんと見守ってやってよ、おとーちゃん!
(十五夜の次の「十六夜(いざよい)月」。雲でお化粧した満月だった。)

9月 23, 2010

不思議な体験

先日、中学校の同窓会があった。その少し前には高校のプチ同窓会もあった。(そろそろ、そういうお年頃なのかな...)

懐かしい面々との二十何年ぶりの再会。特に中学は小規模な学校だったので、同学年のほとんど全員の子の顔を知っていただけに、久々の再会は感動的だった。

ここで、生まれて初めての不思議な体験をした。もう体験済みの人にとっては当たり前のことかもしれないけど、私にとっては初体験だったので、ものすごく嬉しかった。

どんな体験かというと、卒業以来はじめて会うような人との再会で起こったこと。最初見たとき、誰かわからない。いや、正確にいうと、うすうす気づいてはいるんだけど、名前もあだ名も出てこない。全くの他人ではないということだけは分かっている。

次に、その人の名前を思い出す。あだ名も思い出す。すると不思議にも、じわーっと記憶が戻ってきて、その子の中学校当時の顔を思い出す。そこまでくると、もうその人の現在の顔の向こうに、当時の顔が透けて見えるようになってくる。

そして、同窓会が終わる頃には、みんなすっかり中学生の顔に戻っている!体格の変化や、シミ、皺の類いなどを、視覚が勝手に無視してくれるのだ。そして、どの顔も、見慣れていた当時の顔に見えてきたから不思議。

ある種の錯覚かもしれない。でも、本当にみんなの顔が中学のときの顔に見えたのだ。全くの他人が見れば、今現在の彼らの顔しか見えないはず。

ああ、これが同窓生というものなのだと思った。特に中学校の同窓会は感動的だと思う。なぜなら、中学生ぐらいがいちばん多感で、不安定で、それだけに各人の「原型」のようなものを必死で作り上げる時期だからだ。その時期に学校で毎日一緒に過ごしたということは、お互いの中の「個性の萌芽」のようなものを目撃したということなのではないだろうか。

その後どんな人生を送ってきたにせよ、今の姿の中に中学生のその人が確かに居る。そして、それは同窓生にしか見えないものなのだ。

楽しく、有り難い体験だった。

9月 11, 2010

タヌキおやじ

このごろちょっと太り気味

タマジのアルバム 写真を、ほんの数枚ですが追加しました。
  (上の方は昔の写真で、下の方が最新の写真です)
  猫好きの方どうぞ!

9月 05, 2010

ポリフォニー

『No.6』(サナギに勧められて読んだ児童文学)以来ずっと、あさのあつこばかり読んでいる。サナギを追い抜かして、すっかり私の方がはまってしまった。小説ぎらいの私が、こんなに続くなんてめずらしい。

どうしてこんなに面白く感じるんだろうと、ちょっと考えてみた。真っ先に目に付く特徴は「色っぽい」こと。このあさのあつこという人、かなりエロいと思う。野球に関わる男の子たちの成長を描いた『バッテリー』でさえ、ピッチャーとキャッチャーとの関係が、まるで男女のかけひきみたいに色っぽい。子供向けの小説とはいえ、ぞくっとするほど性的なものを感じさせるのだ。それが魅力のひとつ。(笑)

もうひとつは、自然の移りかわりの描写が素晴らしいこと。作者自身、岡山県の田舎にずっと住んでいて、そこにこだわっているようにも思える。山里に住んで、その風景を日々愛でているからこそ書ける文章だと思う。それもこの人の小説の大きな魅力のひとつ。

でも、何よりも私をひきつけるのは、彼女の小説がポリフォニック(多声的)だからだと思う。

「ポリフォニー」というのは、複数の異なる旋律が同時に進行する音楽のこと。今日最も普通に耳にする音楽の構成方法は「ホモフォニー」といって、いわゆる主旋律と伴奏で成り立つのに対して、この「ポリフォニー」というのは、いわば複数の旋律で成り立つ。そのため、どれが主旋律(メロディ)なのかは分かりにくい。そのせいかどうか分からないが、徐々にポリフォニックな音楽は廃れていったのである。

でも、私はバッハに代表される、このポリフォニー(多声部の音楽)をこそ、こよなく愛する。ひとつの音楽の中で各旋律が独立性を保ちつつ、ときには対立し、ときには調和するといった旋律どうしの関係性そのものが面白いのだ。あさのあつこの話の中でも、いちばん面白いのはこの「関係性」だ。

登場人物のうち、誰が主役で誰が脇役ということはなく、いわば全員が主役として、各々の者の視点から、ひとつの出来事が描かれるのだ。ひとつの事実や人物に対しても、立場や性格が違えば、それに対する態度や見方が全然ちがってくる。それらを濃密に絡み合わせながら、同時進行で描いていく。いくつもの視点を内包する小説なのだ。その視点の絡まり方が徹底的に描かれる。まるでバッハの音楽。

さなぎの父親がこよなく愛したアガサ・クリスティのミステリーも、このようなスタイルだったのではないかと思う。私は読んだことはないけど、彼がそれについて熱く語っていたのを懐かしく思い出す。ほかにもきっと、こういうポリフォニックな小説はたくさんあるのだろうと思う。ドフトエフスキーの作品が「ポリフォニー小説」と呼ばれるというのを、どこかで目にした記憶もある。

先日、新聞のコラムのなかに、興味深い一文があった。歴史を描く視点としても、このポリフォニックな方法があるとのこと。つまり、ひとつの地域の歴史を描くときに、都を中心として描くやり方と、そうではなく、多様な地域を、そのひとつひとつを主役として描くやり方だ。そして、その後者のやり方、つまり各々の地域を主体として描いていくというやり方でものを書いた代表人物として、司馬遼太郎が挙げられていた。

どんな分野においても、ポリフォニックなものの見方というのは面白いと思う。この世界の成り立ちそのものが、そもそもポリフォニックなのではないだろうか。それを無理やりホモフォニー(主旋律と伴奏で成り立つ音楽)に押し込めようとすると、必ずひずみが出るはずだ。
空はすっかり秋もよう

9月 02, 2010

秋の証拠

まだまだ真夏の暑さだけど、一昨日あたりから急に何かが変わり始めてるような気がする。

気づいたのは、まず日が急に短くなったこと。私の帰宅は、早いパターンだと夕方6時半。遅いパターンだと夕方7時。おとといは遅いパターンで帰宅。するとあたりはもう薄暗かった。夏ならまだギラギラしていたのに。

それに朝。5時に起きるともう朝日が燦々と照っていたのに、一昨日あたりから5時でもまだ暗い。いま5時半ぐらい。ようやく朝焼けが始まった。これも夏とは全然ちがう。こうやって日照時間が短くなっただけでも、少しは気温が下がるかな??まだあまり実感はないけど。

それと虫の声。蝉の声がすっかり止んで、朝晩聞こえてくるのは秋の虫。大阪の繁華街でも、草陰でコオロギが鳴いていた。

そして銀杏。御堂筋の街路樹に銀杏が、まだ青いけど、もうたわわに実って枝をしならせている。歩道に異臭が満ちるのも、もう時間の問題という感じ。

いろいろと証拠は集まっている。まだ気温的には信じられないけど、秋は確実に近くに来ている。もうちょっとだ。がんばろ。

さ、今日からまたサナギのお弁当づくり再開!
5時半までしかパソコンに向かえないのがちょっと残念...