4月 26, 2008

「あこがれ」?

何だか今日は、いっぱい書いてしまった。最後はやっぱり(?)タマジで締めよう。

タイトルは、「あこがれ」...かな?(笑)

老いの耳

老いに関連してもうひとつ。最近ちょっとショックなことがあった。

春から初夏にかけてのこの季節、ちょっと暖かい日が続いたりすると、あたりが暗くなる頃から、「ジーーーーーー」という、高い音が聞こえる。ちょっと超音波っぽい、金属質な音だが、何かの虫らしい。 ん?春に虫の声?と思ったが、どうやらこれ、あの有名な「オケラ」の声らしい。あの「ミミズだって、オケラだって...」のオケラである。(→「ケラ」)

思い返せば、この声、幼い頃から毎年ずっと聞いている。ちょうど、あの「都市ガス」みたいな香りのするヒサカキが咲き始め、あたりが都市ガスの匂いに包まれる頃に鳴くのである。

先日、夕方、窓を開けると、珍しくテレビがついていなかったので、その「ジーーーー」という大合唱が、部屋の中に飛び込んできた。青虫が、すかさず、「何この音?」と聞いてきた。そばにいた母が、「どの音?」と聞く。「え、このジーーーっていう音」と青虫。「何にも聞こえへんけど?」と母。

あせった母は、急いでベランダに出た。「ああ、ベランダに出て、よく聴いたら、ちょっとだけ聞こえるわ... でも、部屋に入ったら何にも聞こえへん。」 うそみたいだ。こんなに大音量で鳴いているのに...

そう、母にはもはや、あんなに高い音は聞こえないのだ。あれだけ大音量でも、これだけ周りが静かでも。これも、私にとっては、ちょっとしたショックだった。老いというのは、こうやって、確実にやってくる。まず目に来る。そして、こうやって耳に来る。老いが耳にきたら、声でしかその存在を知ることのできない、オケラのような生き物は、もうこの世にいないも同然なのだ。

3世代(近くに住む祖母を入れると4世代)で、一緒に暮らしていると、各々の年齢の変化と課題が色々見られて面白いというか、なんというか...

老いの難しさ

ふと思ったことがある。上手く書けるかどうか...

昨日、仕事が終わり、大阪駅から下り電車に乗った時のこと。快速電車なので、2人掛けの席が進行方向を向いてずらっと並んでいるタイプの車両だった。私が座ったすぐ後の席に、年配の女性が2人座ったらしい。姿は見えない。声だけ聞こえる。

窓際に座った方の人は、どうやら何かの「先生」らしい。通路側の女性が、「先生、先生」と呼んでいた。お茶か、お花か、何かそんな風なものかもしれない。窓際の方が80代、通路側は60代ぐらいと見た。さしずめ、「先生とその付き人」というところかな。先生は、やたらと声がでかい。しかも、神戸ことば丸出し。典型的な、神戸の旧家の「レディー」のしゃべり方である。しゃきしゃき、はっきり、ゆっくり話す。

話は戦時中の思い出話から始まる。「付き人」の方は、おそらくもう何度も聞かされた話なのだろう、ちょっとウンザリ気味の相づちを、それでも先生の機嫌を損ねない程度に礼儀正しくうっている。先生はいい気分で次から次へと、淡路島に疎開したこと、そのときに着物や、珊瑚の数珠を避難させておいて、本当によかったということ等を話す。そして、三ノ宮に近づいてきた頃、先生が、

「私、お店へ寄ったら、また留守番の女の子に、なんやかんや声かけたらなあかんでしょ。そやから、元町に着いたら、あんた、わるいけど、お店へ行って、ちょっと今日の伝票と納品書とってきてくれへん?私、駅のホームで、あんたの荷物と一緒にちんと座って待っとくから。」

明らかに、何かのお師匠さんで、元町にお店を構えており、そこの店の経営、経理から何から自分で切り盛りしているのだろう。年配ながらも、なかなかの「やり手」らしい...

などと、いろいろと想像しながら2人の会話を聞いていて、元町に着いた。そして、好奇心に駆られて、電車を降りて行く2人の姿を見てみた。

付き人の方は、ほぼ想像通りの、しっかりと背筋の伸びた和服の女性。ところが、その先生の方といったら!どんなに強烈な、ぎらぎらした和装の婆さんかと思いきや、なんのことはない、背の低い、ほっそりと弱々しい老女だった。服装も、和服ではない。普通の洋服。どちらかというと、むしろみすぼらしい。

もし、今までの話を全部、聞かなかったことにして、この人に初めて会ったとしたら、ただの弱々しい「お年寄り」としか思えないだろう。その姿と、さっきまでの声の主とは、まったく別人のように思えた。

ショックだった。おそらく、本人の自己イメージは、その「声」の方だろうと思う。まだまだ現役で、権力を持っていて、力に溢れている。でも、他の人、特に彼女の歴史を知らない人から見れば、彼女は世間で言うところの、いわゆる「介護」の対象となるような「お年寄り」なのである。そのギャップは決して埋めようがない。そのギャップを知っているのは、おそらく、その付き人の女性だけである。

同じことが、今うちでも起きている。祖母のことだ。祖母は今年93歳になるのだが、今まで一度も自分のことを「お年寄り」と思ったことがない。見た目はもう、すっかりヨボヨボで、いつ「お迎え」が来てもおかしくないような、ふらふらの老女なのだが、本人の心の中には、幼い頃から今までの自分が全部一緒くたになって詰まっている。そこに「老人としての自分」はいないのだ。

今は独り暮らしで、なんとかやっているが、いつかは「介護」の世話にならないといけないかもしれない。でも、そのためには、一度、病院に行って、「介護認定」というものをしてもらわなければならない。祖母はそれが嫌なのだ。どこも悪くないのに、病院に行くというのが嫌なのだろう。

健康診断さえ嫌らしい。ときどき、「健康診断の申込み」が回ってくると、受ける項目を選ぶ選択肢のところに、自分で「受けない」という選択肢を勝手に作って、そこにマルを付けている。その代わり、自分で徹底的に健康に気をつけている。祖母の胸の内を本当に分かっているのは、どうやら私の母だけらしい。だからこそ、母は、祖母のことを誰にも任せたくないのだろう。

いずれ自分にもやってくる「老い」というものの受け入れ方の難しさをおもう。いや、すでに日々刻々と老いているのだけれども。

赤い若葉

コーヒーの若葉の画像を送っていただきました。ほんと、赤っぽい。緑の若葉が赤い色素でコーティングされているような感じ。なんでも、若葉が赤いのは、新芽を紫外線から守るため、アントシアニンという物質が含まれるからなのだそう。もう少し成長すると、それが抜けて、緑色になるらしい。それにしても、この若葉、ツヤっツヤですね!

これは、職場近くの公園の「花海棠(はなかいどう)」という桜や林檎、桃などに似た花を咲かせる木の若葉。やはり思ったとおり、バラ科の植物は若葉が赤い。(携帯電話で撮ったので、画像が悪い。)

これも、職場近くの誰かの家の前にあった、ゴムの木の若葉。真紅。コーヒーの木もそうだけど、やっぱり南国の植物は、紫外線が強い分、それから身を守るべく、若葉が赤っぽいのかもしれない。

これは若葉じゃないけど、なんだか珍しい花が咲いていたので。葉っぱを見ると、どうも「カタバミ」に似ているんだけど... カタバミの園芸種かな?? とにかく、とても複雑な構造をした花でした。

追記:調べてみたら、「オダマキ(苧環)」という、キンポウゲ科の花の一種でした。(なにが「カタバミ」じゃ!この葉っぱ、どう見ても「キンポウゲ」やん。私も、まだまだやね...) キンポウゲ科の草はほとんど有毒(有名な「トリカブト」もキンポウゲ科!)。これもそうらしい。(ちなみに、これがカタバミ

4月 20, 2008

若葉の色

桜があっという間に終わり、すっかり若葉の季節になった。満開の桃や桜もいいけれど、次々と萌え出る若葉の方がもっといい。何より力強い生命を感じる。この時期、空気も、何となく若葉のかおりに匂い立つような気がする。毎朝毎夕、電車の窓から色々な若葉の色を楽しんでいる。

そこで、今年とくにはっきりと気づいたのは、若葉の色は緑色とは限らないということ。本当に色々ある。大きく分けると、緑系と、赤系。

緑と赤なんて、補色の関係にある2色、つまり色相的には全く反対の色同士なのに、その2色がともに若葉の色だなんて、なんだか不思議。

写真はベニカナメモチという、よく生け垣に使われている常緑低木の若葉。ほんとうに真っ赤で、日に透かすと、燃える炎のよう。その他、クスノキの若葉も出始めは赤いし、モミジにも、赤い若葉を出すものが多い。柘榴もそう。もしかすると、薔薇もそうかな?考えてみると、けっこう多くの若葉が赤系統なのだ。若葉は青いとは限らない。

そういえば、生まれたての子のことを、「みどりご」ともいい、「あかご」とも言う。やはり緑と赤。昔の人は、若葉の色になぞらえて、生まれたての人間のことを呼んでいたのだろうか。とすれば、何となく納得。

毎朝毎夕の若葉の観察は、私の一日の中でも、いちばんの至福の時。きらきら光る若葉もよし、また、どんより曇った日の、不透明で深い色もよし。どんな天気でも楽しめる。きれいな色を見るのは、決して視覚だけの喜びではないような気がする。宮沢賢治が『注文の多い料理店』の序文に言うように、それは、ある種の「たべもの」なのだと思う。朝日にきらきらと透ける若葉の色を見ていると、ほんとうに、お腹も胸もいっぱいになるのだ。こういう「たべもの」に飢えることが、私としては一番こわい。

(『注文の多い料理店』序文)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43735_17908.html

4月 06, 2008

さくら満開!

ベランダ下の桜が満開。

画面左下に、
くねくね猫が!

ちなみに、彼のくねっている場所は、下の階(2F)の人の出窓の上。


 「なんやおまえ!写真撮っとったんけ!」 
(マヌケ顔というか、おっさん顔というか。猫というより、狸...)

おすまし顔も一枚。

日の出の光を浴びるタマジ。







GNPよりGNH ~憧れの国ブータン

先の記事、「消えた畑」に、公一翁からコメントをいただいた。

 「あっしの住む加古川でも、田んぼがどんどん住宅地に変ってゐます。
 農業の後継者不足が一番の要因とは思ひますが、実は固定資産税もそれに荷担してるんですぜ。
 ご存知のやうに土地に係る固定資産税は、「土地の評価額×税率」ですが、農地は宅地に比べて、評価額が低いんです。 それで一般的には税金は安いんですが、大都市圏では、「優良な住宅の供給」を推進するために、農地も宅地化させようってんで、「農地の宅地並み評価」をして、農地にも宅地並みの課税をしてるんです。
 さうすると、年取った農家の方は「貸し駐車場にしよう」とか「売ってしまはう」となるわけです。
 昭和40年代ならいざ知らず、「食の安全性」とか近未来の食糧危機が問題になってるときに、旧態依然とした制度が残ってるのを知って、愕然といたしやした。」

たしかに、税法を少しでもかじると、一時しのぎのために作られたはずの制度が、不必要に残っているのに出会い、それが弊害を生じていたりして、愕然としたり、憤りを感じたりすることがある。

都市部の農地は宅地並み課税...それだと、たしかに税金を払うために、遊んでる土地を駐車場や賃貸住宅にでもせざるをえなくなる。都市部ではもう住宅が余ってきてるというのに... 税制が食料自給率の低下と、地球温暖化を促進してるようなものだ。こんな時代なのだから、逆に、温暖化防止対策として、都市部で緑化のために土地を使うと、固定資産税が軽減されるという制度を作ればいいのに...

おそらく、固定資産税の税制改革と、温暖化防止対策との間に何らかのつながりを見出すことなど、「お偉い人」には不可能なのだろう。ついでに言うなら、「道路特定財源」なるものも、もう自動車のために使うのをやめて、「自転車専用道路」の建設のために使ってくれればいいのに... そうすれば、みんなもっと自転車に乗るようになるだろうから、それこそ、温暖化防止に直接貢献するし、事故も減る。でも、それも、自転車なんかもう何十年も乗ったことのない人たちには、どうでもいいことなのかもしれない。

税制と関係するのかどうか知らないが、戦後の「杉を植えよう」政策の愚かさも、ひどいものだ。広葉樹を伐採して、換金性の高い(と当時おもわれた)杉を植林。でも結局、国産の杉は売れず、保水力を失った山は崩れ、スギ花粉症が国民的病気となっただけに終わった。稲の減反政策なんかも、本当に愚かしい!それもこれも、「発展」といえば、「経済的発展」のことをさすと思い込んできたせいだ。

開国にあたり、国王みずから、「わが国はGNP(国民総生産)ではなく、GNH(国民総幸福量)を発展の指標とする」と宣言した国がある。長らく鎖国を続けていたアジアの小国、ブータンである。

近代化というものが、必ずしも国民に幸福をもたらすとは限らない、という考え方からだそうだ。無防備に西洋的近代化を受け入れるのでなく、森林や農村を保護しながら、高い食料自給率を維持しつつ、ゆっくり慎重に近代化を進めていくという国策をとっている。経済的には貧しくとも、国民は豊かに幸せに暮らしている、という国づくりを目指すのだそうだ。

日本などは、その良い「反面教師」になっているのだろうと思う。日本に視察に来たブータン人のコメントが印象的だ。

「日本は、GNPは高いし、西洋的な近代化という面においては最も進んだ国かもしれないが、大都会に暮らす国民を見るかぎり、時間的ゆとりもなく、あまり豊かそうにも、幸せそうにも見えない。」 

それもそのはず、GNPというものは、単に国の経済活動を測るだけのものなのであって、戦争や自然災害などの「特需」も、プラスとして計算され、国民が不幸になっても、数字が上がるものなのだから。

日本もブータンのように、開国の初めからこのようにしていれば、今頃ずいぶん違った国になっていたかもしれない。明治時代の無防備な近代化の弊害が、あらゆるところに、もう耐え切れないほどに現れ始めているように思う。

ああ、なんか熱く語ってしまった(笑)。

ちなみに、このGNHを国の発展の指標に、という考え方は世界各国で評価され、「GNH研究所」なるものまで誕生している。しかし、ブータン国王は言う。「この考え方が、単なる流行言葉のようになってしまってはいけないと思う。」 この思慮深さが、またいい。

亡父は、絶対に外国旅行には行きたくない、という人だったのだが、ブータンにだけは行ってみたいと言っていた。父の遺志を受け継いで、いつか行ってみようかな...