5月 28, 2011

物言わぬ存在

ハリネズミはまだ職場の所長室に居る。(→「近況いろいろ」のときのハリネズミ) 朝、出勤してまずやることはハリネズミの世話。夜行性なので、朝にはもう寝ている。夜中にした糞尿を取り除き、水をかえ、床材を足しておく。いつも世話をしているのに、いっこうになついてくれない。もともと人になつかない動物なのかもしれない。それでも、毎日せわをしていると何となく可愛くなってくるから不思議。

夜の間に大暴れしたのか、
小屋がひっくり返っていて、
その上に所在なくうずくまっていた。

なつきはしなくても、せめて警戒は解いてもらおうと思い、世話のたびに小屋に手を近づけて匂ってもらうことにしている。私のことを匂いで覚えてもらおうと。その甲斐あってか、最近は私が手を近づけても針を立てなくなった。うれしい。それなりになついてくれているのかもしれない。

物言わぬ存在と仲良くなるのは難しいけど、それだけやりがいがある。根気よく関わろうと思う。

面白いのは、事務所で一番年配の仕事がばりばりできる女性が、このハリネズミと接するとき人が変わったように優しくなること。もともと汚れ仕事は一切しない人なのに、ある日曜日、自主的に世話までやっていた。この小さなハリネズミが、ひとりぼっちの残業や休日出勤のときの、彼女の心の友になっているのかもしれない。思わぬ展開に所員一同驚いている。

梅雨に入ったし、これから蒸し暑くなるので、ダニがわかないように昨日は床材を総替えしてやった。世話をすればするほど愛着がわく。ただそこに居るだけで何となくいい感じ。

物言わぬ存在といえば、ビッグイシューに連載中の「自閉症の僕が生きていく風景」というコラムが面白い。

東田直樹という人が書いている。会話のできない重度の自閉症をかかえつつ、筆談で執筆を続けている人だ。「物言わぬ者」が何を感じ、どう感じながら生きているのか、巧みな言葉でつづられていて、目からうろこが落ちるような感じがする。

その彼のことば。

「好き」という気持ちは、人間にとっての根本的な感情です。好きなものを守りたいと思う気持ち、好きなものと一緒にいたい思いなど、好きという感情自体は、効率や生産性とは関係ありません。

けれども、人は「好き」という感情をとても大切にしています。これは人としての価値を考える上でも重要なことだと思います。誰かが自分のことを好きだといってくれる、大切な存在だと思ってくれる、それが人の価値を高めるのではないでしょうか。

 すごく大切なことだと思う。

スズメも今、子育ての季節
ベランダに来ていたスズメの親子

すずめの親子のツーショット
ものすごく警戒心が強いため
ものすごく遠くから撮った。

5月 24, 2011

母親の野生

あちこちで子猫が生まれている。お初天神でも小さな子猫を見かけた。

今春の赤ちゃんが生まれて、再びお乳が出始めた母猫に、もう母親と同じぐらい大きくなった去年生まれの子猫たちが吸い付いていた。それを写真に収めようと近づいたら、母猫が敏感に私の動きを察知した。

猫のお母さんは、子供に乳を与えながらも決して警戒を解かない。私もそんな母親でいたいと思う。

子供の方だけ見ていたのでは子供は守れない。しっかりと世の中の動きを見て、いちはやく危険を察知したい。そのためにも、原発や政治のことに無関心ではいられない。

自分と同じぐらい大きな子供たちに授乳する母猫。
曽根崎のお初天神にて。

5月 23, 2011

未知の力

先週の日曜日、私の留守中にサナギがいきなり自分の部屋を片付けた。それも、かなり徹底的に。あまりにも見違えたその部屋に本人自身も驚いているのか、部屋に入るたびに毎回「きっれー!!」と叫んでいる。

今までどれだけ言っても全く片付けなかったのに、片付けた上に掃除機までかけていた。いったい何が起こったんだろう。何か未知の力が働いたとしか思えない。

そういえば、学校の学院際あたりからちょっと様子が変わってきていた。学院際での発表にむけて部活が盛んになり始め、本番を終えて、これを機に引退する先輩たちを送り出し、いよいよ新入部員を迎えるという段階になって、サナギの生活態度に変化が見られたのだ。

いつもむすっとして、あんまり学校のことを話してくれないサナギが、ある時こっちが引いてしまうぐらいの明るい声で、「もうすぐ中一ちゃんが入ってくるねんっ!」と嬉しそうに言っていた。自分に「後輩」ができるのが嬉しいらしい。

どうやら演劇部に憧れの先輩がいるらしい。自分もいつかそんな「先輩」になれるよう生活を見直している、と解釈できる...のかな?まあ何が起きているのかよく分からないが、とにかく先輩や友達の持つ影響力は、親の持つそれをはるかに凌ぐということが分かった。

なかなか青春している。

5月 22, 2011

ブタとおっちゃん

丸亀市役所の元職員さんが最初自費出版したのが話題となり、出版社から新装版となって世に出された写真集「ブタとおっちゃん」。すっかりとりこになってしまった。このおっちゃんのかっこよさ。日本にもまだこんなおっちゃんがいたのか。

おっちゃんは、何度も賞を取るほどの凄腕の養豚家。朝起きてから寝るまでずっとブタのそばで過ごす。昼寝するのもブタと一緒。新聞を読むときもブタにもたれて。ビールを飲むときもブタのそば。ブタを相手にギターを奏で、犬や猫、牛や馬、猿や鶏もブタと一緒に飼っている。おっちゃんに負けず劣らず、動物たちもみんないい顔をしている。

おっちゃんは、ブタの世話の一切を自分と奥さんの2人だけでこなす。お産の世話や、手術もやる。子豚をできるだけ長く母親のそばに置く。そのおかげか、子豚たちの顔が何ともいえず可愛い。ブタにストレスを感じさせないことが、肉質にも影響するのだそうだ。当然だと思う。

おっちゃんと子豚
食肉の大量生産のために、どんどん畜産業の機械化が進むなか、このような育て方は珍しいそうだ。

これが本当に日本?というような写真がたくさん載っている。

私のいたインドの村ではこれが普通だった。色んな生き物が人間とともに暮らしていた。

日本も、ほんのひと昔前まではそうだったはず。

お母さんの周りを駆け回る子豚たち

日本の町は、いつのまにこんなに都会化してしまったんだろう。本当に。あっという間に。

毎年何万匹もの野良猫や野良犬が人間によって殺処分され、町の「衛生」が保たれる。

野良猫の糞よりも、もっと危険なものを、いまこの瞬間にも、人間は空に海に垂れ流しているというのに。

子豚とおっちゃん。まるで孫みたい。

見ているうちに、なんだか泣きそうになった。

なんか迷子になったような気分。

このおっちゃんのような暮らしに憧れていながら、実際は正反対の生活を送っている情けない自分。

私もまた、「都会の人間」という傲慢な種族の一員なのだ。


この春オープンしたばかりの大阪の駅ビル。
エッシャーの「だまし絵」みたい。
なんとなく現実感に欠ける。

海と山と多くの動物に囲まれたおっちゃんの世界、そして私の通う人間と機械ばかりの大阪駅。同じ国なのに、そのあまりのギャップにくらくらと目眩がしそうになる。

ずいぶん感傷的な日記になってしまったと反省しつつ、せっかく書いたのでこのままアップ。

5月 08, 2011

またやられた&猫展

ようやく黄砂もおさまって、これぞ五月晴れというような良い天気。冬物を一気に洗濯した。

久々にサナギ語録。毎週月曜日は少年ジャンプの発売日。朝の電車でも帰りの電車でも、買ったばかりのジャンプを読むサラリーマンや学生が多い。その読み始めるときの動作、期待に満ちた雰囲気で表紙を開くときの動作が、何かに似ているといつも思っていた。何ともいえずうきうきしながら、何かを開けるあの感じ。

ずっと何だろう何だろうと考えていた。そういうつまらないことを何日もひきずってしまう。そして、夕飯後の洗い物をしているときに思いついた。そうだ!「昼休みにお弁当箱を開けるときの動作」だ!似てる似てる。そっくり。

と思って、さっそく少年ジャンプ愛読者のサナギにも、心理的にも似てるのかどうか確認する意味もこめて同意を求めてみた。「な、似てるやろ?」

するとサナギ、「うむ。」と一応同意したうえで、「...だが、決して落胆することはない。」と一言。

しばらく意味がわからなかった。けど、わかった。「なによ~っ!どういう意味よ~っ!」

もう弁当なんか作ってやらない。(うそ)

それにしても、なぜ最近サナギは時代劇みたいなしゃべり方をするんだろう...不可解。

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話は変わって、いま梅田阪神で猫展をやっている。大好きな高原鉄男さんの作品もある。ご本人も駐在中。

猫展

いっぱい居る可愛い猫ちゃんの中から
サナギが選んだ一匹。しぶい。
(文庫サイズのブックカバー)

サナギと母と3人で行ってきた。ちょうどその日は大阪駅ビルのオープンの日だったけど、そちらの方には近寄らず。あとからテレビで見たら、ものすごい人出だったそうだ。近寄らなくてよかった。

これで大阪駅は三越伊勢丹、阪急、大丸、阪神と、4つもの百貨店に囲まれることになった。私は、ことデパートに関しては阪神ファンだ。何となく古くて庶民的で安心する。


その前に行ったクレー展とあわせて、お気に入りの絵葉書が増えてきたので、安い写真フレームを何個か買ってきて、トイレの壁をギャラリーにすることにした。

(じぶんちのトイレを公開するのは気が引けるけど、見てもらいたい一心で)

こんな感じ。↓

題して「厠ギャラリー」
これから季節ごとに色々中身を変えていくつもり。

5月 05, 2011

重曹のすごさ!

重曹(炭酸水素ナトリウム)を掃除、洗い物、洗濯、消臭など生活のあらゆる場面に駆使する人を「ジュウソイスト」というらしい。自然派の女性を中心にじわじわと広がってきているそうだ。少し前のビッグイシューの特集で知った。たしかに、重曹はすごい。我が家では重曹はベーキングパウダー(ふくらし粉)としてしか使ったことがなかった。でも、その本当のパワーは洗浄や脱臭にあるようだ。

その威力を知ったのは、妹が里帰り出産で帰ってきていたとき。これを言うと誰もが笑うのだが、妹の母乳はなぜか魚臭かった。フレッシュな間はそうでもないが、それが衣服に付着して、ちょっと時間が経つと魚臭がした。しかもサバとかイワシのような青魚の匂い。だから、普通に洗濯しただけでは魚臭が消えなかった。でも、それを重曹を溶かした水につけ置きしてから洗濯すると、においが見事にとれたのだ。

それからしばらく重曹のことは忘れていたのだが、最近ビッグイシューを読んでまた思い出した。重曹を大量に買い込み、まずは台所で洗剤がわりに使ってみた。手始めに、揚げ物をしたあとの油をためておく油入れ。重曹を少量の水でしめらせてペースト状にしたものを塗りつけてしばらく置き、その後スポンジで洗うと、嘘みたいにつるっつるになった。油入れって、もともとはこんな色してたんだ!とびっくり。それほど以前はべとべとに汚れていたのだ。

そして、洗濯物。年頃の子は新陳代謝がさかんなのか、サナギのシャツ類はなんとなく皮脂くさいというか。そんな系統の匂いが取れないまま、どんどん蓄積していっていた。そういう匂いって、一度ついてしまうと取れないものだと思っていたが、いちかばちか試してみようと思い、濃い重曹水につけ置きしてみた。それから洗濯。すると、これも見事にとれた。この消臭効果はものすごい!

ということで、部屋の消臭にも重曹を使うことにした。重曹水に、好きなエッセンシャルオイルを数滴加え(私の場合はスパイク・ラベンダー)、部屋の中の布類にスプレーしまくる。タマジにも無害だし、安心してたっぷり振りかけられる。

なにより、海や河川に大量に流れていっても無害なのがいい。何とか今後も続けていきたいと思うけど、飽きっぽい私のこと、いつまで続けられるかなあ...

『重曹生活のススメ』(岩尾明子著)

5月 03, 2011

黄砂の日


珍しくサナギが私と一緒にどこかに行ってもいいというので、久々に奈良に行ってきた。たぶん学院祭で燃え尽きて、何もやる気がしないのだろう。そんなときしか付き合ってくれない。

今日は昨日にも増して、ものすごい黄砂だった。せっかく広々した奈良へ行くのに、視界がせまい。黄砂の中、駅前で借りた自転車を飛ばして平城宮跡、奈良公園、春日山原始林に行ってきた。

黄砂のせいか、景色は冴えなかった。写真も何となく暗い。レンズが黄砂で汚れていたのかもしれない。

平城宮跡に咲くタンポポは、旺盛をきわめるセイヨウタンポポではなく、
ぜんぶ「ニホンタンポポ」だった。さすが平城宮!

一面に咲いていた小花。名前は不明。
こういう花に出会うのが一番うれしい。
  




春日山原始林
こんな森が市街地のすぐ側にあるのがすごい。

春日山原始林
今にも歩き出しそうな木の根っこ

奈良公園の主役


演劇オンチ

5日1日はサナギの学校の学院祭だった。演劇部の年に一度の大舞台。セリフはないけど、サナギも一瞬(大道具みたいな感じで)出るらしい。「絶対観てよ!」と言われていたので、母、妹、甥っ子と一緒に雨模様の中、朝からいそいそと観に行った。

いい席が取れ、途中で騒ぎ出した甥っ子を妹に退場させてもらい、じっくり見れた。が、何しろ演劇というものに関して今まで全然関心を払ってこなかった私には、それが上手だったのか下手だったのか、困ったことにまったく分からない。情けない話だけど、面白かったのかどうかさえ分からない。感想の述べようがなく、ほとほと困り果てた。

どうしても虫や動植物の方に関心がいき、(人間学専攻にもかかわらず!)人間模様というものに対する関心が薄く、小説も読めない人間なのだ。このほど長編小説を読めたことは本当に奇蹟に近い。それに対して、サナギは長編小説(ライトノベルだけど)を軽々読み通す。明らかに私とは趣味が違う。

音楽ならば、自分の趣味からはずれていても、何らかの感想を言える。でも、演劇に関しては全然ダメだということがよく分かった。誰か演劇に詳しい人に手ほどきしてもらわないと。

でも、ひとつだけ感動したのは、「肉声のもつ力」。人間のナマの声。これの持つインパクトは凄かった。もちろんマイクなど使わなくとも講堂の奥深くまで届く声。美しい発音は、言葉のひとつひとつを心にまで届かせる。まあ、これが分かっただけでも収穫かも。

来年、再来年はサナギたちの学年が主役。それまでに、ちょっとは演劇に対するセンスを養いたいものだ。

5月 02, 2011

輝くオレンジ色

久々に長い小説を読んだ。『小さきものたちの神』(アルンダティ・ロイ)というインド人女性の書いた本。イギリスのブッカー賞を1997年に受賞。内容はあまりに重くて、読んだあとしばらく何もできなかった。

きっかけは、雨宮処凛の自伝、『生き地獄天国』(ちくま文庫)を読んだこと。これも壮絶だった。その雨宮処凛が今回の大地震の直前に対談した相手が、このインド人女性だった。

雨宮処凛という人は、ビッグイシューの中の「世界の当事者になる」という人気コラムの著者。とても気の利いた発言をするので、どんな人かと自伝を読んでみたら、とんでもなく苦しい半生が描かれていた。まだ年齢的には若いようだが、舐めた苦労は一生に値するかもしれない。その苦労と引き換えに、実のある言葉を獲得した人なのだと思う。

通勤時、飽くことなく電車の窓からの景色を楽しんでいる。木々の若葉と光の織りなす色つやが何ともいえずに美しい。重い内容の本を立て続けに読んだあとだったから余計にそう思ったのかもしれない。動物(人間も含めて)の苦悩に満ちた儚い一生に比べて、植物たちの何と力強く美しいことだろう。やっぱり私は人間のつむぐ言葉よりも、陽の光や植物の色・形による非言語的なメッセージに強く惹かれる。

この春の収穫は、ザクロの木の若葉の色が鮮やかなオレンジ色をしているということに気づいたこと。ザクロの木は夏、秋、冬と観察してきた。このたび春の新芽を確認して、ようやく一年を通したザクロの姿を知ったことになる。鮮やかなオレンジ色の花をつけるザクロ。その新芽もまたオレンジ色に輝くということが分かったとき、なぜか感動した。取るに足らないことかもしれないけど、私にとっては大切な発見。