6月 21, 2008

リスク

小学生が屋上の天窓を突き破って落下し、死亡した事故で、亡くなった子供さんは本当に気の毒で、 彼自身に責任があったと問うつもりはないけれど、「学校の安全管理に問題がなかったかが問われている」と聞いて、私とサナギが同時に言ったこと、それは、「そういう問題ちゃうやろ!」ということ。

半ば怒りながら、サナギ曰く、「そんなとこまで先生に注意してもらうなんか、それってかなりの幼稚扱いやん。なんか小学生、えらいバカにされとうやん!」 あたかも、小学生が自分で自分の身を守れない存在であるかのような報道のされ方に、サナギは憤りを感じたらしい。

今回の事件をきっかけに、前から思っていたことが、再び私の心に浮上してきたので、ちょっと書いてみる。

サナギがまだほんの小さな青虫だった頃、よく他の家の子と一緒に公園などで遊ばせていた。そのとき、いつも感じていたことがある。母親に色んなタイプがあって、大まかに分けると次の2種類になる。

① 子どもが少々危険なことをしていても動じないタイプ。むしろ積極的に冒険させようとするタイプ。
② 子どもに迫る危険を未然に取り除き、絶対に危険にさらすまいとするタイプ

②のタイプの人は、ずっと子どもについてまわり、前に障害物があると取り除くし、危ないことをしようとすると、その度に子どもを叱る。普段の生活でも、危ないことは絶対にさせない。ハサミや刃物など絶対に使わせない。危ない場所には登らせない。汚いものも触らせない。

そして、気づいたのは、②のタイプのお母さんの方が圧倒的に多いということである。生まれてから一度もカッターナイフを使ったことがないという小学生が多いのもうなずける。私はといえば、言うまでもなく①のタイプ。だから、他のお母さんとの付き合いが、ちょっとしんどかった。みんなの前では、青虫を保護(するふり)して、青虫とふたりきりのときだけ危険を冒させるという、「使い分け」をしなければならなかった。

私は、子どもは小さい頃に、命にかかわらない程度の、色んな危険を冒した方がいいと思う。小さい時は親がそばについていてやれる。そして、まだ力が弱いため、もし針や刃物を使って傷を負ったとしても、その傷が小さくてすむ。体も柔らかいため、体に衝撃を受けても、回復も早く、損傷も小さい。その間に、外界とあらゆる仕方で接触しておかねばならないと思う。そうやって、危険に対する「免疫」をつけるのだ。そうやってこそ、薄いものの上に乗ると破れることや、刃物で切れば血が出て痛いこと、どの程度の高さから飛び降りれば、どの程度痛いか、などということを体で知ることができる。

これらの危険を習得するのは、大きくなってからでは遅いのだ。大きくなってからでは、本当に「命がけ」になってしまう。

もうひとつの問題は、家で危ないことを禁じると、親の見ていないところで危険を冒すようになること。子どもにとって、危険を冒すことは、成長に不可欠な、いわば必須のことなのだ。家で禁じても、結局は健気にどこか他の場所でやり通す。それが幼稚園だったり、保育所だったり、学校だったりするわけだ。それを捕まえて、親が学校に責任を問うのは、的はずれだと思うが、どうだろうか。

河合隼雄さんの『ココロの止まり木』という本の中に、「リスク」という章がある。そこに書かれているのは、「日本にはあえてリスクをとる行為をする人が少ないのではないか」ということ。何しろ、日本語には「リスク」に当たる言葉がないらしい。リスクとは、避けるものとしての危険という意味ではなく、意図的にとられる(take)ものとしての危険なのだそうだ。たしかに、この国にいて、リスキーな生き方をするのは、かなりの勇気と、強い意志の要ることだと思う。

この度の事件や、その他の不幸な事故の影響で、ますます学校が萎縮し、「危険な」活動が縮小され、野外活動や、理科の実験などが消えていくのだとしたら、それこそ、子ども達にとって、計り知れない損失だと思うのだけれど...

6月 20, 2008

なかなか可憐

今年はゴーヤを植えてみた。なかなか可愛らしい花が咲く。そして、なんとこの花、匂いも素晴らしい。控えめだけど、立派な芳香を持っているのだ。知らなかった。しがないベランダだけど、どうか虫たちがこの香りに気づいて、受粉を手伝ってくれますように。

今日は父の命日。

6月 16, 2008

朝散歩の収穫

野いちごヤマモモ


クチナシを生け垣にしている家があった。
みんな、昨日の雨に濡れて、瑞々しかった。

6月 15, 2008

カメちゃん性別判明!

ようやく判った!カメちゃんの性別が。昨日、尻尾の途中あたりから、黒っぽい突起物がにょっきり出ているのを見てしまった。オスだったのだ!

カメの性別は、かなり成長するまで見分けられないというのは、色んなところに書いてあったので知っていたが、見分け方に、この突起物のことは書いてなかった。たいていは、「オスの方が爪が長い」とか、「オスの方が顔つきがキツイ」とか、そういう曖昧なものだった。でも、私は昨日、決定的なものを見てしまったのだ!これが一番確実だろうと思う。(ほんとかな?もしや、あれは排卵管??)

最近よくカメちゃんを水槽から出して、ベランダを自由に歩かせている。タマジが番をしてくれる。番といっても、常に傍に付き添って眺めるだけ。カメちゃんがひっくり返って、もがいていても、眺めるだけ。昨日も昼間ずっと散歩させていた。そして、水槽に戻したとたん、ニョッキリと例のモノを出したのだ。

カメの水槽は、だいたい1週間に1回洗うことにしている。本当はもっと頻繁にやるべきなのだろうが、私にはこれが限界。べつにカメが好きというわけじゃない、というか、そもそも爬虫類は嫌い。だから、一種の「修行」(何の修行や!?)と思ってやっている。未だに、気持ち悪すぎて正視できない。なるべくご本尊は見ないようにして、仏具だけ心をこめて洗うという感じ。

性別もわかったことだし、そろそろ本格的に名前をつけるかな... 何にしよう?

6月 14, 2008

近況いろいろ

ずいぶん間があいてしまった。いつのまにやら梅雨。今日は梅雨の晴れ間だけど。

梅の季節。梅だけじゃない。枇杷にヤマモモ、野いちご、さくらんぼ、色んな果実が実を結び始めて、わくわくする。

書かない間に色んなことがあった。箇条書きにすると味気ないけど、ひととおり並べてみる。

・これまで5年間、お互いのブログを見たり、メールを交わしたりと、ネット上だけの付き合いだった中さん(ちょうど一回り年下の女性)に、ようやく会えた。
実在の人だった!(笑) 知的な側面、少女っぽい側面、繊細な側面、たくましい側面、いつも文章にも表れている、互いに相反するような彼女の様々な側面が、次々に表情に表れて、見る角度によって顔がくるくる変わる、魅力的な女性だった。だいたい想像通りの人だった。でも、やっぱり目の美しさなんかは、直に会ってみないと分からないものだなあと思った。人と会って、印象に残るのはやっぱり目だと思う。

・祖母が入院した。92歳にして、生まれて初めての入院。転んで骨折したのだ。
最初は暴言を吐いたり、駄々をこねて、家に帰りたがっていたが、ようやく落ち着きが出て、なぜ病院に居なければならないか理解し始めた様子。他人に自分の体をどうこうされるのが何より嫌いなのだ。
祖母はいま確実に「人生の総仕上げ」の時期に入っている。人生の終わり方というのは、本当に大問題だと思う。人間、いつかは、なんらかの形で、この世を辞さなければならない。それをどうやって成し遂げるか。今から考えておかなければと思う。

・青虫(さなぎ)が、小学校の行事で、5泊6日の「自然学校」なるものに行ってきた。かなり苛酷な日程だったようで、5年生みんな、野生児のように焼けて、痩せて、たくましくなって帰ってきた。
10歳から11歳のこの時期に、こういうイベントがあるのは、とてもいいことだと思う。この時期、特に女の子は体がずいぶん大人っぽくなる。心の変化も相当なものだろうと思う。「プチ成人」と言ってもいいかもしれない。そういう時期に、親元から離れて、一種の通過儀礼のように、同年齢の子たちとサバイバルを体験するのは意義深いことだろう。兵庫県独特の試みだというこの行事、予算の許す限り、末永く続いて欲しい。

・音楽上の素晴らしい「出会い」。これまで、バッハの鍵盤曲は、やっぱりチェンバロでなければ、と思っていたことが、とんでもない偏見だったと感じさせてくれるピアニストがいた。その偏見から、今まで聞く機会がなかったのだが、バッハ研究家の礒山雅先生のブログに触発されて、試しに聞いてみたら、これが本当に素晴らしい!ハンガリー出身のピアニスト、アンドラーシュ・シフだ。
まず、礒山先生おすすめの「パルティータ」を聞いた。そして、次々に「平均率クラヴィーア曲集1巻、2巻」、「インベンションとシンフォニア」、「ゴールドベルク変奏曲」、「イギリス組曲」、「フランス組曲」...と聞いていった。もう本当に夢中で。どんどん展開する新たな世界に、心はもう踊りっぱなし。おかげで、ちょっぴり鈍くなりかけていた私の音楽的感性が、一気にまた活性化した。

など。それらひとつひとつについては、また追い追い、詳しく書いていこうと思う。とりあえず忘れないために書き留めておいた。