8月 26, 2007

それぞれのムーミン

ポニーのひづめの手入れをする青虫。ポニーといっても、かなり大きい。 この子の名前は「ムーミン」。(ムーちゃん、お尻だけ公開しちゃってごめんね。)

夏バテ気味のタマジ。でも、ヤモリを見つけると俄然やる気になる。ただし、前に何かに刺されて、左前足が恐ろしく腫れ上がって以来、虫にしろ、ヤモリにしろ、追いかけるけど、手は出さない。

残暑お見舞い申し上げます。

まだまだ暑い日が続く。暑くてブログも休みがち。タマジもバテている。涼しい場所を求めてふらふら~っと歩いては、すぐにゴロンと寝転ぶ。遊びにも熱が入らない。

しかし、そんなタマジを尻目に、青虫は遊ぶ遊ぶ。この夏は馬三昧。馬に乗り、馬の世話をし、馬に会いに行く毎日。 いちどなど、寝る前に布団の中でしみじみと言っていた。「馬がおらんかったら、今頃どんなにしょうもない毎日を過ごしとったやろ...」

私の子どものときの夏休みは蝶々の採集で満たされていた。そのために道具を揃え、図鑑で調べ、網と三角箱を持って捕まえ、標本にする。もう本当に夢中で取り組んだ。虫と草花が私のフィールドだった。それを手引してくれたのは父。

青虫の場合、その対象が馬であり、フィールドが厩舎であり、手引してくれたのが叔母(つまり私の妹)であるという違いだけで、結局同じパターンで夏を過ごしているんだな、と何だか安心したような、落胆したような、複雑な気分。

まあでも、何を通してでもいいから、人間社会以外との関わりも持っていてほしいと思う。人間が人間社会の中で独りで生きられないのと同様に、人間も、生態系の中で人類だけでは生きられないんだから。

私はといえば、この夏、またムーミン熱(青虫のポニーのムーミンではなく、トーベ・ヤンソンの方)が復活。読み直したりしていた。やっぱり目指すはムーミンママだな。彼女は本当に素晴らしい!母親として、妻として、いや、ひとりの女性として。まだまだ道は遠いけど。

8月 05, 2007

気づかなければ

月2回のペースで更新される、中村桂子さんの「ちょっと一言」(生命誌研究館サイト内)を楽しみにしている。今回のお話の中に、気になることが書いてあった。先日、彼女がある人に、「クマゼミが鳴き始めましたね」と話しかけたところ、相手はまったく蝉の声に気づいてなかった、という話だ。大阪では、今年は、蝉の当たり年?だとかで、とりわけ鳴声が大きい。それなのに、だ。

「自然があるとかないとか言いますけれど、実際のあるなしだけでなく、人々が気づくか気づかないかということも考える必要がありそうですね。気づかなければ、あってもないのと同じであり、それが続くとなくてもよいことになりますから。」 (中村桂子)

少し前、同じようなことを、他の所でも読んだような気がする。と思って、思い出してみたら、新美敬子さんという、猫の写真家の書いた本だった。

猫の写真を撮るのに、ロシアのとある街に行こうかどうか迷っていて、ロシアに赴任中のビジネスマンに、その街に猫がいるかどうか訊ねると、「ここでは野良猫は見かけない」との返事だったので、行くのを止めようかと迷ったが、いちかばちか行ってみると、ちゃんと野良猫はいた、しかも沢山いた、という話。

いつも何らかの目的に追われて街を歩いている人には、目的以外のものは存在しないも同然なのだ。特に、蝉の声や鳥の声、野良猫や蝶々の姿などは、感覚器官を素通りしてしまうものの代表かもしれない。それらに気がつくのは、よほど無目的に、ぼーっと歩いている輩なのだろう。それは、他ならぬこの私。

これではいけないと思いつつ、心のどこかで、これでいいという強い思いがのさばり続ける。私にとって、世界は人間だけじゃない。昆虫や、植物や、動物たちであふれている。その分、私は人間としての何かを犠牲にしてるかな?と、ちょっと不安になることもある。それが何かはよく分からないけど... もしかすると、それが私にとっての「気づいていない=存在しない」ことなのかもしれない。