3月 18, 2007

ニートの効用


写真は妹の手にじゃれるタマジ。(まあ特に何てことない一枚だが、もう赤ちゃんの域を脱したタマジの顔をひと目見てもらおうと...)

というわけで(どういうわけだ?)、同居人がまた増えた。こんどは人間。青虫の競馬の師匠、つまり私の妹だ。考えてみれば、私にとっては自分の高校卒業以来(ということは、ほぼ20年ぶり??)、そして青虫にとっては初めての叔母との同居ということか。青虫はもう、それはそれは楽しみにしていたようだ。学校でも、近所でも嬉しそうに言いふらしていた。(実は妹、ちょっと傷心ぎみで帰ってくるにもかかわらず...)

「ニートが帰ってくるねん!」と、覚えたての言葉を使って、嬉しさを表現する青虫。「ニート」というのは、青虫とその仲間たちにとって何とも甘美な印象を伴った言葉のようだ。「学校にも行かず仕事もしてない大人」、それは即ち、「自分たちの相手をしてくれる大人」を意味する。しかも、普通の大人のように説教臭くない。時間に余裕があるので、目線が子どもに近い。実は、私には何人かの「ニート」に分類されてもおかしくない年下の友達(元生徒)がいるのだが、青虫は彼女たちのことが好きだ。彼女たちには心を開いて接する。思えば、子どもの成長にとって、主婦でもなく、仕事もしておらず、毎日ぶらぶらしている大人というのは、もしかしてものすごく必要な存在なのではないだろうか。私にとっては、それは父だった(それはそれで、ちょっと問題があったのだが...) そういう大人から、子どもは驚くほど多くのことを学ぶ。

私にとっても有り難い。家にいる大人が皆、お金をかせぐ仕事をしている家というのは、人的な余裕が全くない。夕方、帰ってきてバタバタと洗濯ものをしまい、急いで夕飯を作って、お風呂の用意をする。そのあいだ、きょうだいがいる子はいざ知らず、青虫はたいていゲームかテレビということになってしまう。そのときに、手の空いた大人がひとり居るだけで、夕飯待ちの風景は全くちがったものになるということが分かった。夕飯を待つあいだ、2人で一緒にタマジと遊んだり(なぜか青虫ひとりでタマジと遊ぶことはあまりない)、猫の写真集を眺めたり、外に猫草を探しに行ったり... 私は、テレビに子守をさせているという負い目なく、安心して夕方の用事を片付けることができる。何という気楽さ!なんという心地よさ!

働いていない、しかも健康な大人が家にいるというのは、その家の心の余裕を表すと考えてもいいんじゃないか。ふとそんな風に思った夕べのひとときだった。 まあ、妹もそのうち仕事を始めるだろうし、新しい相手が見つかれば、また出ていくだろうから、それまでのつかの間の「余裕」をみんなで楽しもうと思う。 「余裕」といっても、現実的には、今までより多く私の怒鳴り声が響き(妹は散らかす名人で、いわゆる「片付けられない女」なので)、住空間は狭くなり、食事の支度や洗濯物は増える...という、決して優雅とは言えないものになるのではあるだろうけど。

最近はっきりと分かってきたことがある。「時間的余裕は少ないけど、経済的には困らない生活」と、「貧乏だけど、花鳥風月、山川草木を愛でる時間のある生活」とだったら、絶対の絶対に、私は後者を選ぶということ。質素な生活には耐えられる。けど、心に余裕のない生活には本当に耐えられない。そういう点で、青虫の父親と私はよく気が合っていたと、今さらながら思う。そういえば彼も、私の父も、「ニート」と「非ニート」(?)の境界をウロウロしていた人だ。私も本質的にはそうだし。

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