またニワトリが大量に処分された。1万2千羽も。ゴミかなんかのように。ナチスの大量虐殺と何が違うのか分からない。それより少し前には、健康に育ったキャベツや白菜、ピーマンなどが、これは価格が下がるという理由で大量に廃棄された。
一方で、相次ぐ自殺や殺人におののき、教育の場で「いのちの大切さ」を教えよう、などと言っている。あほかと思う。 家畜や害獣、もっと言うなら樹木や草花ならいくら殺してもよく、人間はひとりでも殺してはいけないという理屈は、子どもにはきっと分からない。 いや、大人だってそんな理不尽なことは分かりたくない。
タイトルの「復讐あるいは警告」は、去年の5月に亡くなったロシア語同時通訳者、米原万里の『真夜中の太陽』(2001年 中央公論新社)の中の1節に付された題である。この文章の中で、米原は言う。
「大体数の人々が、自分自身か、自分の家族か、あるいは身近な人々が生き物を殺し食物としていくプロセスを日常的に見知っているあいだは、無駄な殺生を戒める倫理観や美意識が、どの民族の宗教や風習にも息づいていた。
しかし、分業が進み、防腐・冷凍技術が発達し、輸送運搬手段が発展を遂げるなかで、生き物が食べ物になっていくプロセスは、殺生も含めて圧倒的多数の人々からは隔離された形で進行するようになった。」
「数年前、騒がれた狂牛病(BSE)や、鶏の奇病、いずれも自然な環境に生息する動物ではなく、人間による大量生産と大量消費のために、過度に密集した生息環境に置かれ成長を促進するホルモンや薬物を投下された家畜が発症している。」
「今の、食料をまるで工業製品のように生産し、消費物資あつかいするあり方を続ける限り、食中毒問題は、今後も限りなくわれわれを襲ってくるだろう。これは、命を削られる生き物たちの復讐でもあり、人間に対する警告でもある。」
この文章は、O-157による食中毒の発生、雪印乳業のずさんな管理によるブドウ球菌の混入などの事件を受けて書かれた記事であるが、状況は今も全然変わっていない。O-157が鳥インフルエンザに、雪印が不二家に変わっただけのことだ。
人間以外の生き物の命をモノのように扱えば扱うほど、人間自身の命もモノのようになっていくという構造があるように思う。 命の大切さを教えたいなら、まず人間のせいで人間以外の生き物に害が及んだり、迷惑がかかったりすることをなるべく減らし、動植物を、工業製品としてでなく、生き物として敬う態度を、他ならぬ人間の大人たちが言葉の上だけでなく、ちゃんと行動で示すべきだろうと思う。
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