7月 24, 2011

違和感の正体

原子力発電には基本的に反対だし、もうこれ以上原子力に頼ったエネルギー政策はやめて欲しいと願っているので、そういう関係の情報に敏感になっている今日この頃なのだが、昨日聞きに行った講演会では、「脱原発&自然エネルギー推進」を唱える動きに、初めてある種の違和感を覚えた。直感的な違和感だったので、その原因をうまく言語化できないでいる。なんだろう...はっきりしないままだけど書いてみる。

昨日、京都の龍谷大学で行われた「脱原発と再生可能エネルギーin京都」という講演会を聞きに行ってきた。講演者は3人。そうそうたる顔ぶれだった。

・今あちこちで引っ張りだこの自然エネルギー研究家、飯田哲也さん
・かつては水俣病の、現在は原発の問題に取り組むジャーナリスト、アイリーン・スミスさん
・若狭湾の原発事故の想定被害を試算し、リスクの高さを訴える経済学者、朴勝俊さん

それぞれ聞き応えのある内容だった。450人収容可能の講堂がほとんど満員。市民の意識の高さがうかがわれる。そのほとんどが、反原発・脱原発派の人たちと見受けられた。が、中には原子力の未来を信じて頑張ってきた原子力の専門家も何人か来ていたようだ。

私が違和感を感じたのは、一人目の講演者、朴さんがしゃべった後の質疑応答のとき。

ずっと熱心に手をあげていた一人の年配の男性が、講演者と激しい口論になった。講演者が、原子力の専門家でもないくせに、もう原発の時代は終わったというような発言を繰り返していたのが気に入らなかったのだろう。その男性、とうとう終いには、「日本の未来のために必死で研究してきた人たちに対して失礼じゃないかっ!」と怒り出してしまった。講演者は「みなさん、この人の話をもっと聞きたいですか?それとも次の質問に移りたいですか?」と他の聴衆に問いかけ、みんなが送った盛大な拍手で、この男性の口を封じてしまった。私は手をたたかなかった。

私は、原発推進派の一般の人の主張や怒りを自分の耳で聞いたのは初めてだったし、おおやけの場での激しいやり取りを目の当たりにしたのも初めてだったので、正直ドキドキした。でも心のどこかで、怖いもの見たさというか、この年配の男性の主張をもっと聞いてみたいとも思った。この男性の発言がいかに時代遅れなものであったとしても、場違いなものであったとしても、日本のために必死で頑張ってきたという言葉に嘘はなさそうに思えたからだ。

その男性を講演者は、まるで狂人扱いした。私はその態度に違和感を覚えたのだ。あまりに可愛そうな扱われ方だったのだ。お国のためと、一筋に真面目に生きてきた一人の老人を、若い人がそんなに簡単に笑い飛ばしていいものだろうか?多くの人が、その男性の発言に対して失笑を飛ばした。その男性をあざ笑う当然の権利があるかのように。自分達が多数派だと知った上で声高に叫ぶ。少数派の意見を抹殺する。...集団というものの怖さを感じた。

多少すくわれたのは、次の講演者アイリーン・スミスさんが彼女の講演の最後に、この男性の存在を「素晴らしい」と言ってくれた時だった。「こういう集まりには、同じ意見の人ばかりが来たら意味がありません。必ず反対意見の人や、色んな意見を言う人がいなければディスカッションは成立しません。そういう意味で、さきほどの質疑応答は素晴らしかったと思います」と結んだ。さすがディベートの国アメリカの血が流れているだけのことはある、と感心するとともに、さっきの年配の男性の胸中を思って少しほっとした。

アイリーンさんのおかげか、その後の質疑応答では、みんなわりと自由に講演者に対する懐疑的な意見を述べ始めた。その中に、私がすごく共感した意見があった。それは、あの有名な飯田哲也さんに対してだった。

「私は淡路島から来た農業を営む者です。太陽光発電に関して、孫さん(注:ソフトバンク社長)が、東北の休耕田に太陽光パネルを設置する構想を打ち立てているそうですが、休耕田を死んだ土地と見なすその考え方に非常に違和感をおぼえます。休耕田の問題、農業の問題を深く考えることもなく、ただ農村を次の発電のために利用しようというのでは、自然エネルギーのために自然を壊すことにもなりかねないと思うのですが」

というものだった。この意見は多くの拍手を得た。私も大いに手をたたいた。これは本当に心配なことだと思う。自然エネルギーにシフトすべきというのは確かにそうだと思う。でも、それを唱える人たちが、相変わらず経済・金融一辺倒で、新しいエネルギーの経済効果しか考えていないことが、ものすごく気になるのだ。それだと、原発を導入したときと動機の面では何一つ変わっていないことになる。相変わらず、「西欧に追いつき追いこせ」式の考え方なのだ。

急に脚光を浴びつつある自然エネルギーとその研究者たち。彼らの顔に早くも「勝者のおごり」の色が見え始めているような気がした。いわゆる「原子力村」が「再生可能エネルギー村」に置きかわるだけでは意味がないと思う。

それよりも、こんなにも電気に頼りきってしまった日本の今の暮しを見直して、電気への依存度を少しでも下げるべく、新しい暮らし方を提言する人のほうに興味共感を覚える。

...というのを、電気を使いながらパソコンで書いている時点でダメだな。

ちなみに昨日の講演&ディスカッション、動画がアップされています。
 ※その年配の男性と朴さんの口論は、1時間を過ぎたあたり。
→ Ustream (途中、山本太郎さんも飛び入り参加)

4 件のコメント:

  1. いい講演に参加されましたね。
    議論、というのは、ある程度、共通言語がなければ成り立たない。
    多数派が少数派を封じ込める場所でもなく、少数派が過激なやり方で多数派を攻撃する場所でもなく。
    どんな論理にも、正と反との双方向性があると思う。
    でも、なかなか、理想的な議論らしい議論を、進めていける現実的な方法は難しい。
    立場の違う相手の主張を考慮しつつ、発展させていける議論の仕方を、最近では、教育現場でも採り入れようとしてるところがあると聞きますが、期待したいですね。

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  2. kaorinさん!ありがとう!さすが司法試験の受験生、視点が違いますね~。

    ほんとに、議論というのは特に日本人にとっては難しいと思いますね。すぐに全否定というか、人格否定みたいになってしまう。議題についてだけやり合えばいいのに、なぜか人生観の戦いにまで及んでしまう。

    アイリーンさんも、学校でもっとディベートさせた方がいいと言っていました。それにも期待したいですが、やっぱり基本は家庭でしょうね。子どもにちゃんと発言権を与えて、じっくり議論に付き合うようにしないと。うちはしょっちゅうやってます。(単なる親子喧嘩という意見もありますが。笑)

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  3.  聖徳太子は、「人皆黨あり」(ひとみな、たむらあり)と言われています。
     人には党派心がある、というのです。

     自分と同じ意見の人とは群れて、違う意見の人は遠ざけ、或いは攻撃するというのは、太子の昔からあったものと思われます。

     それほど、多くの人が集まって政(まつりごと)を行うのは難しいということなのですね。

     「和を以て貴(たっと)しとなす」は有名な言葉ですが、上に見たような人間の心情や、血で血をあらう蘇我氏と物部氏の抗争を経験された太子のお言葉と思うと、単に「仲良くしなさい」という意味ではないように感じます。

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  4. なるほど、「和を以て貴しとなす」の「和」の本当の意味を理解するのは簡単なことではないのですね。

    殺し合うことで実現する何かではないことだけは確かですね。

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