12月 14, 2007

一瞬の輝き

柘榴(ザクロ)の季節。夏に鮮やかなオレンジ色の花を咲かせていたのが、今、これまた鮮やかな真紅の実を実らせている。どうしても食べたい。でも、残念ながらどの柘榴も誰かの家の庭木。盗むわけにいかない。

それで、しかたなくお店で買った。カリフォルニア産。物心ついて以来、初めてザクロを食べる青虫は、もう大喜び。一粒一粒ちまちまと、実をはずして食べた。私も大好き。何より色がいい。まるでガーネットを食べてるみたい。いや、ガーネットは日本名「ざくろ石」だから、逆か。

毒々しくて、ちょっと「血」のような雰囲気も持っている。それもまたいい。吸血鬼か何かになったような気分で、残酷に、荒々しく貪る。

この果物は、他のどんな果物にも似ていないのがいい。青虫が、「ザクロって、たぶんザクロ科ザクロ目ザクロなんやろな」と言った。事実、ザクロは独立した科に分類される。

それにしても、国産の柘榴が食べてみたい。その辺にいっぱい成っているのに... 気候的にも問題ないみたいだし、味もいいのに、なんで柘榴は商品化されないんだろう?

ところで、先日、ある人から私の撮る写真がなかなかいい、と褒めてもらったのに気を良くして、何となく「写真家の目」で風景を眺めつつ朝の通勤電車に乗っていた(単純!)。その日は空気の澄んだ、秋晴れの、朝日がきらきらした日だった。

電車がちょうど芦屋あたりを通り過ぎるとき、線路のそばの家の庭に生えた1本の大きな柘榴の木が見える。今ちょうど、その木に柘榴がたわわに実っている。その柘榴の実が、そのとき、まさに朝の太陽に照らされて、この世のものとは思えないほど美しく輝いていた。息が止まりそうなほど美しかった。

「写真家」の私は、これだっ!と思った。この一瞬。この輝き。こういうのを捕らえなければ!でも、その瞬間、すぐにそれは無理だということも分かった。その美しさを作り出した全ての条件を、もう一度揃えることは不可能だと悟った。この季節、この天気、電車の窓から見るというこの状況、温度、湿度、そして何より、上機嫌だった私の気分。これら全てが揃わなければ実現しない「美」なのだ。再生不可能。

生きることすべてが、きっとこんな感じなのだ。一瞬一瞬を大切に味わおう。

...なんか、あまりにもありふれた結論だけど(笑)。

12月 02, 2007

柚子がいっぱい!

母のお客さんから 柚子をいっぱいいただいた。住む人のいなくなった徳島の実家の庭に生えている柚子らしい。放っておいても、こうして毎年、健気に実をつけるのだそうだ。だから完全無農薬。太陽と雨と土だけに育てられた自然の恵み。決して無駄にはしたくない。そこで、果汁だけじゃなく、皮もパルプも全部使うことにした。何にしよう?マーマレード?それもいいけど、今年はオレンジピールならぬ、「ユズピール」に挑戦してみよう!
ということで、さっそく果汁を搾り取った。これは冷蔵&冷凍にして、鍋物や、サラダ、タイ料理の味付けなどに使う。柚子26個から、とれた果汁はごくわずか。ほとんどが皮と種なのだ。やっぱり皮を捨てたら勿体ない。柚子は捨てるところがないという。果汁はポン酢に、皮は料理の香りづけに、種は焼酎に漬けて美容液になるらしい。ということで、一応、種も置いておく。

皮をさらに、表皮とパルプ(薄皮と果肉の絞りカス)とに分ける。パルプの部分にも、繊維やわずかに残った果汁など、いろいろ栄養が詰まっていそうなので、捨てずに使う。砂糖で煮て、ペースト状にしよう。少し表皮も入れて。そして、今回のメインプロダクトである「柚子ピール」!こんなにたくさん材料がとれた。これを砂糖で煮詰めて、天日で乾かし、グラニュー糖をまぶせば、できあがり。「ざぼん漬け」みたいなものだ。

「陳皮」という漢方薬が風邪に効くように、きっと柑橘類の皮には何か風邪の予防になるようなものがあるに違いない。冬の間せっせとこの柚子ピールを食べよう。マーマーレードやオレンジピール・レモンピールなど、酸味・苦味が大好きだ。完成が楽しみ!

部屋の中は柚子の皮を炊く香りでいっぱい!気持ちいい。今日もその作業のつづき。今日は炊きあがった皮を天日に干す作業。いかなごのつくだ煮作りといい、こういう果物を加工する作業といい、こうやって、自然の恵みを、じっくり加工して保存食を作る作業は、私の何よりも好きな作業だ。こういうことをしているときが最も自分が「生きている」と感じる。

12月 01, 2007

桜の紅葉

大家さんちの桜。私は紅葉のなかで、桜の紅葉が一番きれいだと思う。今年は特に素晴らしい。

11月 24, 2007

冬支度

野に散らばる宝石は、野葡萄などの木の実ばかりじゃない。虫だってこんなに美しい。何という虫か分からないが、深い藍色のメタリックカラーの甲虫。人間の指が、象のように皺くちゃで、でっかいのに比べて、この小さな昆虫のなんと、まん丸で、つるつるで、美しいこと!(ちなみに、この親指は一体誰のでしょう?かなり年季の入った指。長年の風雪に耐えてきた手という感じがしますね。)



紅葉の写真は、昨日行った須磨寺で写したもの。桜に楓(かえで)、南京櫨(なんきんはぜ)。みんな一気に色づき始めた。毎日、電車から見る木々の色がどんどん変わっていく。


タマジも、もうすっかり冬仕様。毛皮も冬毛に生え変わった。昼は陽だまりを探して移動しながら居眠り。夜は人間と一緒に布団の中で寝るという毎日。

灯油を売りにくる音、お歳暮の宣伝、クリスマスに大掃除、年賀状... 忙しくなってきたぞ!

まずは、ようやく衣替えをして(今頃!)、ホットカーペットとストーブを出し、クリスマスツリーを飾ったところで、まずは満足。今週末はこれぐらいで上等上等。

10月 14, 2007

草の実

子どもの頃、野山をあてもなく歩き回るのが好きだった。その頃によく出会ったのがこれ。出会う度、息がつまるほど嬉しかった。こんな綺麗なものがあるだろうか!私が小さな頃から紫色に魅せられ続けたのも、この実のせいかもしれない。名前はノブドウ(野葡萄)。こんなネックレスがほしい。

9月 30, 2007

だし醤油

タマジが紹介しているのは、我が家のお気に入りのだし醤油。

四国は香川坂出の鎌田醤油製。

前に地元で有名な豆腐屋さんで、豆腐と一緒に買って帰って以来、すっかりファンになってしまった。

とにかく美味しい。
特に豆腐によく合う。
青菜のおひたしにも。

青虫など、ごはんにこれをかけるだけで食事が済んでしまうほど(いいのか?)。

おすすめです!

http://www.kamada-soy.co.jp/ 

9月 24, 2007

秋の気配?

上は、青虫の乗馬クラブに咲いていた萩。下は、同じく乗馬クラブに咲いていた葛。あたり一面、葛のいい香り。私が勝手に「葡萄の匂い」と読んでいる匂い。花の形も色も葡萄に似てるし。あと、おしろいばなも、夕方から夜にかけて良い香りを放っている。秋の虫はもうとっくに鳴いている。あとは気温だけ...

9月 15, 2007

カメちゃんとタマジ



                                                  
最近、カメちゃんの水槽を洗うとき、しばらくベランダを自由に散策させてやることにしている。しばらく日に当てると、甲羅がぺりぺりと剥がれて、つるっつるの美しいカメちゃんに! いつもタマジが密着尾行。

9月 08, 2007

赤ワイン

昨日は母の誕生日だったので、久々にワインを買ってきた。
なかなか美味しいワインに出会ったので、ちょっとご紹介。

GRAN STATUS というスペインの赤ワイン。850円。

ワインに詳しいわけでは全然ない。ただ、たまに偶然、安くて美味しいワインに出会うと嬉しくなってしまう。

前までずっと買っていたのは、
「王様の涙」という赤ワイン。これもスペイン。1本500円ぐらい。とにかく安いし、味もいい。でも、残念なことに最近見かけない。

で、仕方なく、そのあとしばらく続けて買っていたのは、Burl Wood という渋い味の赤ワイン。カリフォルニア産。これはそんなに安くない。といっても1本、千円ちょっとだけど(笑)。

ああ、それにしても、この GRAN STATUS は気に入ったな... しばらく続きそう。

9月 07, 2007

風土と服装

通勤時にいつも通り抜ける「お初天神」(March 26, 2007 の日記、「お初と徳兵衛」で紹介した)。 朝、北側の入り口から入っていくと、最近なにやらとても甘い香りがする。色っぽい春のかおり。何だろうと思って匂いの源を探ると、「右近の橘」と書かれた柑橘類の木が、白い可愛らしい花をいっぱい咲かせている。これだったんだ。それ以後、通るたびにこの可愛らしい花の放つ芳香を胸一杯にいただいて、大阪の灼熱地獄を乗り切るための一種の清涼剤にしている。

あれ? でも、たしか柑橘類の開花時期は5月~6月のはず。(May 13, 2007 の日記、「風薫る」参照http://shirochou.blogspot.com/2007_05_01_archive.html) 
なんで今頃咲いてるんだろう? いわゆる「狂い咲き」というやつかもしれない。あまりの暑さに、植物も狂ってしまったのか、あるいは、野垂れ死にしそうなほどの地獄の熱さの大阪の、せめて空気だけでも香しくとの、神さまの配慮か。
(上の写真は先日、携帯電話で撮ったもの。柑橘類の花のもっと綺麗な画像はこちら:http://yuiits.web.infoseek.co.jp/kigonatu/g1/index.html

とにかく、大阪の暑さは異常だ。エアコンの室外機からの熱風による人工的な暑さだと思う。これだけの人間が集まり、これだけのビルが建て込んで、全部の建物、全部の人間がエアコンをガンガンにかけていれば、こうなるのは当たり前だろう。緑なんてほとんどない。海も山もない。あるのは人間と建物だけ..... 無理もない。

この灼熱地獄の中で、それでもスーツにネクタイで歩いている人がいる。気の毒に思う。暑いのにそんな格好をしなければならないから気の毒なのではなく、そうまでして社会慣習に従おうとする従順さが気の毒なのである。そして、その気の毒な人たちのために、建物の中はいつも寒いほどエアコンが効いている。ちゃんと日本の夏らしい服装をした人たちにとっては、とんだ迷惑だ。夏だというのに、なぜか防寒具が必要なのだ。

スーツにネクタイは、明らかに日本の夏にそぐわない。もともとは寒い国の服装なのだから。衣・食・住などといった基本的な事柄は、やはり風土に合ったものを選ぶべきだと、つくづく思ったこの夏だった。

8月 26, 2007

それぞれのムーミン

ポニーのひづめの手入れをする青虫。ポニーといっても、かなり大きい。 この子の名前は「ムーミン」。(ムーちゃん、お尻だけ公開しちゃってごめんね。)

夏バテ気味のタマジ。でも、ヤモリを見つけると俄然やる気になる。ただし、前に何かに刺されて、左前足が恐ろしく腫れ上がって以来、虫にしろ、ヤモリにしろ、追いかけるけど、手は出さない。

残暑お見舞い申し上げます。

まだまだ暑い日が続く。暑くてブログも休みがち。タマジもバテている。涼しい場所を求めてふらふら~っと歩いては、すぐにゴロンと寝転ぶ。遊びにも熱が入らない。

しかし、そんなタマジを尻目に、青虫は遊ぶ遊ぶ。この夏は馬三昧。馬に乗り、馬の世話をし、馬に会いに行く毎日。 いちどなど、寝る前に布団の中でしみじみと言っていた。「馬がおらんかったら、今頃どんなにしょうもない毎日を過ごしとったやろ...」

私の子どものときの夏休みは蝶々の採集で満たされていた。そのために道具を揃え、図鑑で調べ、網と三角箱を持って捕まえ、標本にする。もう本当に夢中で取り組んだ。虫と草花が私のフィールドだった。それを手引してくれたのは父。

青虫の場合、その対象が馬であり、フィールドが厩舎であり、手引してくれたのが叔母(つまり私の妹)であるという違いだけで、結局同じパターンで夏を過ごしているんだな、と何だか安心したような、落胆したような、複雑な気分。

まあでも、何を通してでもいいから、人間社会以外との関わりも持っていてほしいと思う。人間が人間社会の中で独りで生きられないのと同様に、人間も、生態系の中で人類だけでは生きられないんだから。

私はといえば、この夏、またムーミン熱(青虫のポニーのムーミンではなく、トーベ・ヤンソンの方)が復活。読み直したりしていた。やっぱり目指すはムーミンママだな。彼女は本当に素晴らしい!母親として、妻として、いや、ひとりの女性として。まだまだ道は遠いけど。

8月 05, 2007

気づかなければ

月2回のペースで更新される、中村桂子さんの「ちょっと一言」(生命誌研究館サイト内)を楽しみにしている。今回のお話の中に、気になることが書いてあった。先日、彼女がある人に、「クマゼミが鳴き始めましたね」と話しかけたところ、相手はまったく蝉の声に気づいてなかった、という話だ。大阪では、今年は、蝉の当たり年?だとかで、とりわけ鳴声が大きい。それなのに、だ。

「自然があるとかないとか言いますけれど、実際のあるなしだけでなく、人々が気づくか気づかないかということも考える必要がありそうですね。気づかなければ、あってもないのと同じであり、それが続くとなくてもよいことになりますから。」 (中村桂子)

少し前、同じようなことを、他の所でも読んだような気がする。と思って、思い出してみたら、新美敬子さんという、猫の写真家の書いた本だった。

猫の写真を撮るのに、ロシアのとある街に行こうかどうか迷っていて、ロシアに赴任中のビジネスマンに、その街に猫がいるかどうか訊ねると、「ここでは野良猫は見かけない」との返事だったので、行くのを止めようかと迷ったが、いちかばちか行ってみると、ちゃんと野良猫はいた、しかも沢山いた、という話。

いつも何らかの目的に追われて街を歩いている人には、目的以外のものは存在しないも同然なのだ。特に、蝉の声や鳥の声、野良猫や蝶々の姿などは、感覚器官を素通りしてしまうものの代表かもしれない。それらに気がつくのは、よほど無目的に、ぼーっと歩いている輩なのだろう。それは、他ならぬこの私。

これではいけないと思いつつ、心のどこかで、これでいいという強い思いがのさばり続ける。私にとって、世界は人間だけじゃない。昆虫や、植物や、動物たちであふれている。その分、私は人間としての何かを犠牲にしてるかな?と、ちょっと不安になることもある。それが何かはよく分からないけど... もしかすると、それが私にとっての「気づいていない=存在しない」ことなのかもしれない。

7月 28, 2007

夏!

いつのまにか梅雨が明け、すっかり夏に。

セミが鳴き、百日紅(さるすべり)が咲き乱れ、タマジがのびている。大阪は連日、灼熱の地獄。でも、実はこの異常な暑さはけっこう好き。

朝、すでに相当な暑さで、道に人影はなく、セミだけがうるさく鳴いているようなとき、突然、子どもの頃の夏休みを思い出す。あの独特の雰囲気。時が止まったようなけだるさ。宿題など、やることは山積みなのに、それら全てを放っておいて、連日ひとりで、朝早くから近所に蝶々を取りに出かけていた。ひとりで蝶を求めて徘徊する夏の朝には、何となく甘美なムードがあふれていた。誰も知らない、私だけの楽しみ。木と、花と、蝶と、私だけの時間。なつかしい。

ところで、この度、別ブログの Thinking Women が完結いたしました。この話に興味を持ってくださった方がいて、その人に翻訳のまずい箇所などを適宜指摘していただき、ちょこちょこ訂正しながらアップしていきました。(まだ訂正が済んでいない章もありますが。) 

もし、読んでくださっていた方がおられましたら、また感想などお聞かせ下さい。コメント欄に書き込んでくださればと思います。翻訳で分かりにくいところなどありましたら、それもご指摘下さればと思います。どうぞ、よろしく。

7月 11, 2007

グリーン・チャツネ


写真は、コリアンダー(香菜)の花。ベランダに植えてある。こんなに可憐な花を咲かせるとは知らなかった。いつも、お店で、まだ花の咲いていない、ミツバのような姿のときにしかお目にかからないので。


コリアンダー、あるいは香菜、あるいはシャンツァイ、あるいはパクチー。 ちなみに、我が家での呼び名は「カメムシ」(匂いが似てる)。 このたび、わけあって、この香菜を大量消費する必要に迫られた。安かったのでつい買いすぎたのだ。そこで思い出したのが、インド時代によく作った「グリーン・チャツネ」(緑のソース)。作り方は簡単。

みじん切りにした香菜と、すりおろしたニンニク、たっぷりのレモン汁、塩、砂糖を混ぜるだけ。本来そこに、飛び上がるほど辛い青唐辛子のみじん切りも入れるのだが、あいにく日本では手に入らない。かわりに普通のシシトウを使ってもいい。たまに辛いのが混じってることがあるから、それを使えばなおいい。

この緑のソースは、揚げ物によく合う。てんぷらにもよく合うし、から揚げ類にも合う。味ががらりと変わるのだ。油っこいものでも、このソースがあればどんどんお腹に入ってしまう。あと、焼き魚や焼き鳥にもよく合う。料理がぐっとグレードアップしたような錯覚に陥る。冷凍しておけば結構保存もきくので、香菜を買いすぎたときは、レモンを買ってきて、これを作っておくと便利かも。でも、あんまり香菜を買いすぎる人なんていないかな...

7月 08, 2007

タマジの誕生日



7月7日七夕の日は、タマジの誕生日。とうとう満1歳になった。猫で1歳といえば、もう大人。タマジの成人、じゃなかった成猫のお祝いに、青虫の友達が来てくれた。いつもの阿修羅ちゃんと姫ちゃん。特に姫ちゃんは、タマジのことが大好き。3人で、「タマジのお誕生日会」が計画され、実行された。

まずは、タマジへのプレゼント。姫ちゃんは、音が鳴るネズミのおもちゃと、キャットフードをたくさん。阿修羅ちゃんは、コウモリやカニ、ネズミなどのフィギュアと、なんと手作り布団!そして、青虫は、本物の鳥の羽根を使ったリアルな小鳥。上の写真は、プレゼント一覧。下の写真は、阿修羅ちゃんにもらった布団で寝ているところ。ちゃんと枕を正しく使っているところがにくい。

みんなで一通り、それらのおもちゃで遊ばせ(タマジはちょっと引き気味だったが)、会食。唐揚げ、ポテトフライ、おにぎりというガキんちょ向けの定番メニュー。タマジにはなんと、明石の天然鯛!(ばあちゃんからのプレゼント)。その後、天気が良かったので、みんなで水遊びしたあと、ついでにタマジにもシャワー。びしょぬれになったタマジをみんなで笑って(ひどい...)、そのあと、ガキどもは勢いづいて学校の開放プールへと流れていった。

タマジにとっては嵐のような一日だったが、他の部屋に逃げたりしなかったところを見ると、まんざら嫌でもなかったのだろう。けっこう小さな子たちがわいわいやっているところに、一緒に居たがる。まあ、タマジの誕生日をいいように利用して、結局自分たちが遊んだわけだが、まあなかなか良い日になったのではないだろうか。私もタマジもくたくたになったけど。

6月 24, 2007

町と田舎を結ぶもの

車という文明の利器がとうとう我が家にやってきて、田舎と再び結ばれた。

まずは長年の懸案のお墓参りに家族みんなで行ってきた。車でないと行きにくい場所なのだ。父方の祖先に長年のご無沙汰を詫び、ついでに私は自分の生まれ育った田舎の山と田んぼに再会。ああ、やっぱり私はここの土に育てられたんだと実感した。やっぱり時々こうやって、ふるさとの風景を確認しに来るのはいいもんだなあ。

次に行ったのは、うちから少し行った田園地帯で開かれる朝市。地元の主婦たちが、共同で場所を借り、自分たちが作った野菜を安価で売っている。前から評判だけは聞いていた。でも、これも車がないと行きにくい場所だったのだ。とにかく野菜の味が違うらしい。ひとりひとりが愛情と誇りを込めて、手間暇かけて育てた野菜。しかも安い!野菜中心の我が家には、まさにうってつけ。早速、場所を探して行ってみた。

評判通りの、手作りの、とても感じの良いお店だった。作った人の顔写真と名前が、ひとつひとつの野菜に記されている。中には、私の高校時代の親友のお母さんの名前も!(それは前から知っていた) やはり、親友のお母さんの作った野菜を中心に、人参、胡瓜、茄子、紫玉葱、トマト、キャベツ、ズッキーニ(!)、それから小粒の枇杷など、持ちきれないほどたくさん買って帰る。なのに、安い!これも車のおかげ。

帰って、早速味わってみた。まずは、トマト、茄子、ズッキーニを使って、我流「ラタトゥイユ」(南プロバンス風、夏野菜のトマト煮込み)を作ってみた。いつもはブイヨンを入れるのだけれど、今回はちゃんと味のある野菜たちなので、野菜そのものの持つ「だし」を信頼して、ブイヨンは入れなかった。

果たしてそれは正解だった。もうめちゃくちゃ美味しい!しっかりと野菜からだしが出ている。ひとつひとつの野菜に、ちゃんとそれぞれの個性がある。ああ、なんという幸せ! 胡瓜も、ちゃんと胡瓜の味がして、いつも買っているコープの胡瓜と食べ比べてみたら、天と地ほどの差があった。塩で揉むだけで立派な一品になる。枇杷も大満足の濃い味だった。

大量生産された水くさい野菜・果物しか手に入らない今日このごろ、もう植物本来の個性は味わえないと半ば諦めていた。でも、近くで、ちゃんと滋味豊富な野菜が作り続けられていたのだ。なんと偉大な主婦たちだろう!感謝感謝。これからもずっと続けてほしい。

環境問題への配慮から、というか、それ以前の問題として、自分が自動車免許を持っていないので、これまで車なしでやってきたけれど、こういう喜びを享受するためには、やはり車は必需品なのかもしれない。私もそろそろ免許取ろうかな... あるいは専属の運転手を探すかな...(笑)

果実染め

写真は、もちろん果実とは関係なくて(笑)、ただの、干した布団の中で休むタマジ。表情がもうすっかり大人に。来月はじめての誕生日を迎える。1歳になればもう立派な大人だ。

それにしても、快適な場所を見つける猫の能力には本当に感心してしまう。「布団のトンネル」の中は家の外でありながら涼しくて、風も通って、しかも安全。私も小さくなってタマジの横に入りたい!

さて、いつもチェックするスーパーの「見切り品」コーナー。近ごろ主役は、苺から梅に変わっている。上等な青梅が1kg、300円で出ていたので早速買って帰って、シロップ漬けにした。

梅を洗い、「へそのゴマ」みたいなヘタの部分を取り除いて、いったん冷凍庫で凍らせる。ガラス瓶に、凍った梅と氷砂糖を交互に入れ、何日か置いておくと、濃厚な甘みと酸味と芳香をあわせ持った「梅シロップ」が出来上がる。これを少し薄めて、氷を入れたら、ビタミンたっぷりの梅ジュースのできあがり。これからの季節に最適の飲み物だ。梅に感謝。

それと、今年はもうひとつ新しい果実漬けを作ってみた。これは妹の提案で、結果はまずまず成功。何かというと、家の前の立派な桜の木(たぶんソメイヨシノ)に成った、小粒のサクランボを使ったリキュール作り。作り方は簡単で、桜の実、氷砂糖、ウォッカ(何でもいい)をガラス瓶に入れて置いておくだけ。桜の実は、赤黒く熟したものだけを使う。そのまま食べればかなり苦い。でも、リキュール漬けにすると、苦みが和らぎ、桜の芳しい香りと深い赤紫色がウォッカに移って、素晴らしいお酒になる。そう、ちょうど「桜の精でお酒を染める」という表現がぴったりくる感じ。満足満足。

ちなみに、青虫は、これを「桜ウォッカ」として売り出そう!と言っている。競馬好きにはたまらない記念品になるだろうと。(※競馬好きにしか分からない話題)

ヤマモモが成ったら、こんどはウォッカの山桃染めをやってみたいと思う。

果実酒好きには、今はとてもいい季節。

6月 16, 2007

幼なじみ

                                                                


















3歳まで、田んぼや畑に転がされていた私にとって、この花は、ナズナやオオイヌノフグリなどと並んで、幼い頃からの友達のようなもの。何ともいえない親しさを感じる。小さな私と一緒に何となくそこに生えていて、小さな子の目を楽しませ、美への扉を開いてくれた貴重な花だ。

荒れた草地にしか生えないので、最近めったに見かけないのだが、先日久しぶりに再会した。もう嬉しくて嬉しくて。今も変わらず可憐な姿で咲いていた。

この花に、私独自の名前をつけたいと思う。「ニワゼキショウ」なんて似合わない。さしあたっては、「星草」なんてどうだろう... 咲いた花と丸いつぼみが草むらの中で入り乱れた様子は、まるで夜空で星が瞬いているように見えるから。それに、この花の視覚的イメージは、秋の虫の音を思わせるし、秋の虫の音は、やっぱり星の瞬きを思わせるから。

ついでに言うなら、ナズナは「鈴草」、オオイヌノフグリ(酷い名前!)は「空草」がいいと思う。

なんて。今朝はちょっと浪漫ちっくに始めてみました。

6月 09, 2007

消えていく人参

最近どうも人参の減りが早すぎると思ったら、やっぱりそうだった。乗馬を始めた2人のガキども(青虫とその叔母)が、こっそり冷蔵庫からかすめ取り、せっせと馬たちに貢いでいたのだ!健康に気を遣って、うちではいつも少し割高の「減農薬人参」を買っている。それを、馬の体にもいいからと、勝手に貢いでいたのだった。とんでもない。

猫用にも、なるべく近くで獲れる天然魚や、薬害の少なそうな国産キャットフードを買ったりしてるので、人間と猫だけでも、やたらエンゲル係数が高いところへもってきて、この上さらに馬までなんて絶対に無理っ!(カメちゃんとクワガタは、あんまりお金はかからない)

ということで、今朝は持って行きたいという2人の希望を厳しくはねのけ、人参を守りぬいた。それにしても、馬はほんとに人参が好きで、その執着心たるや、見ていて可笑しくなるほど。猿にバナナ、馬に人参、猫に鰹節、私にきつねうどん... 食べ飽きるということは決してなさそうだ。

6月 08, 2007

高貴な人

先日の朝、いつものように出勤前の顔の塗装を施すべく、駅のトイレに寄った。すぐに空気がいつもと違うことに気がついた。何ともいえず爽やかな香り。空気が清められた感じ。そして、すぐにその理由が分かった。洗面台の隅っこに、小さな植木鉢が置いてあり、そこに私の大好きなスイカズラがひと蔓、丁寧に植えてあったのだ。この何年かで、どんどん好きになってきたこの花。まさかこんな場所で出会えるとは!

私はこれを置いてくれた、誰か分からない素敵な人に、言いようのない親しみを感じた。心から感謝もした。一体だれなんだろう?おそらくは、ここのトイレを掃除する清掃員のおばちゃんか、あるいは、ここを日常のトイレとして使っている駅の売店のおばちゃん、あるいは、駅にひとりだけいる女性職員かもしれない。何にしても、素晴らしい思いつきだ。人知れず、さりげなく、このようなことができる人は、本当の意味で高貴な人だと思う。

切ってきて花瓶に差すのではなく、鉢植えにしてあげているところが、またいい。

※スイカズラ(得も言われぬ強い芳香を放つ蔓性の花。実もかわいい)
http://yuiits.web.infoseek.co.jp/kigonatu/c2/suikazura.html

6月 01, 2007

色っぽい季節

雨が多くなってくるこの季節、何かそわそわしてしまう。というのも、魅力的なものが次々に目に入ってくるからだ。野苺が赤く色づき始め、山桃が実り、スーパーには梅やらっきょうが出回る。でも、なんといっても私にとって一番わくわくするのは、たわわに実った枇杷!お店で売ってる枇杷ではなくて、近所にひとりでに生えた持ち主不明の枇杷の木に、小さなオレンジ色の実がいっぱいなってるやつ。ああ、もういてもたってもいられない、という気持ちになる。

その自生の枇杷の木の実と、お店で売ってる枇杷の実は、別物といってもいいぐらい味がちがう。お店のは大きくて色も形もいいんだけど、味気ない。自生のは小さくて、食べるところがほとんどないのが残念だけど、本当に枇杷の匂いがする。酸味も甘みもびっくりするほど強い。近所の目があるから、持ち主不明とはいえ、いい大人があんまり堂々と取れないけど、でもこの週末あたり、早朝を狙って取りに行こう。楽しみ!

花もすごい。特に匂いの強い花がこの季節、きわだって多いような気がする。薔薇はもちろんのこと、前に書いた蜜柑の花、くちなし、そして私の大好きなスイカズラ。夕方から夜にかけて、これらの花々が妖艶な匂いを放つ。空気には湿気が満ちていて、よく匂いを通すし、なんとも色っぽい季節だ。

最近、マンゴーをよく食べる。日本のは高くて手が届かないから、たいていはメキシコ産のアップル・マンゴー。赤くて大きいやつ。ライチも、最近はメキシコ産のが出回り始めた。台湾のに比べて色は薄いけど、味はなかなかのもの。これら、外国産の果物だけど、なんとなく今の季節によく似合う。

あと、この季節の楽しみは、スーパーの「見切り品コーナー」を覗くこと。たいてい安くなった苺が出ている。それを数パック買って帰って、苺ソースを作る。砂糖を加えて煮るだけ。これを煮るときの匂いがもうたまらない!でも、ちょっと気になるのは、さいきん苺が古くなっても、あんまり傷まないこと。自然の苺ならもっと傷むはずなのに。何か薬でもかけてあるのかな、とちょっと心配になる。

何にしても、梅雨に向かうこのじめじめした季節は嫌いでない。というか、むしろ大好き。

5月 26, 2007

「別格の箸さばき」?


久々に青虫ネタ。 ただいま小学校4年生。習う漢字も増えてきて、宿題を全然やらない青虫は、漢字がものすごく苦手。でも、本(主に漫画)をよく読むだけあって、へんに語彙が豊富。というか、へんな語彙が豊富。 国語の授業で、最近習った漢字がずらっと書かれた紙に、それぞれの漢字を使った例文を自分で考えるという課題があるらしい。作った例文から、その子の日常生活がうかがえるので面白い。青虫の作った例文を見て、いつも大笑いしてしまう。いや、むしろ心配するべきなんだろうか。

以下、ある日のその紙から抜粋。


課題: 青虫の作った例文

「願」: かなわぬ願い (これはまとも)

「最」: 最も小さい (この辺まではいい)

「初」: 最初からダメ (なんかネガティブ...)

「散」: かみの毛が散っていく (なんで髪の毛?)

「別」: 別っかくのはしさばき (何じゃこれ?)

「望」: よく望は身をほろぼす 
     (ここで担任の先生のコメントが入る。
       「よくこんな言葉知ってるね...」 ※「... 」がミソ)

「塩」: トマトはときどき塩からい (そうか?)

「以」: おまえはクズ以下だ (えっ!?)

「印」: 悪人の印 (別に「悪人」でなくても...)

「付」: 子もんが付いている (「指紋」のつもり)

「説」: 説明がふかんぜん (ネガティブ...)

「仲」: 仲直りなんかしない (「する」でもいいのに...)

「差」: 二馬身差 (たぶん先生には意味不明)

「季」: 季語が入ったはいく (妙に博識。でも誤り)

「節」: サクラの季節  (これはまとも)


相変わらず面倒臭がりで、お風呂のとき洗髪をいやがる。ある日。

「洗わんかったら、臭いし、友達に嫌がられるで」

「みんな、わんこぐらい臭いで」
(注:いまだに一人称は「わんこ」。これもちょっと心配...)

「でも、臭くない子もおるやろに」

「そんなん子どもらしくないねん。大人は臭いのを気にする。子どもは臭いのを誇りにする。そう覚えておいてほしい。」

と言い残して出て行ってしまった。ほんまにもう...

※写真は本文とは関係ありません。ただタマジの写真をアップしたかっただけ。ブサイクだけど、野良猫っぽくて愛らしい一枚でしょ?

5月 13, 2007

風薫る


外を歩いていると、どこからか良い香りが漂ってくる。いつも同じ匂いだ。職場の近くでも、家の近所でも。何だろう何だろうと、ずっと気になっていた。キョロキョロしながら、一生懸命その香の源を探ってみたら、いつも必ず近くに何かミカン科の木があって、満開の花を咲かせていることが分かった。ミカン科の木が、こんなに強い芳香を放つとは。こんなに身近な果物なのに、今まで全然気がつかなかった。

写真は、朝の清々しい空気の中で、さっそく野外観察を始めているタマジ。でも、人間に見られていることや、カメラを向けられていることに気がつくと、すかさず、くねくね、すりすり、おちょけて見せる。(次の写真) 動物写真家の岩合光昭さんによると、これはオス猫の特徴なのだそうだ。一種の自己顕示欲? それとも照れ?

5月 10, 2007

家をリニューアル

ゴールデンウィークのあいだに色々と大きな変化があった。

まずは、家の中の大々的な模様替え。青虫の、自分の部屋が欲しいとの要望に応えるためと、このたび同居することになった妹の居場所を確保するためとで、ちょっとした引越並みの大仕事になった。青虫はこの日のために、この一年間、誕生日プレゼントも、クリスマスプレゼントも返上していたので、どうしてもやらざるを得なかった。前々からの約束だったのだ。

とにかく疲れた。こんな本格的な肉体労働は本当に久しぶり。おかげで各人、ひと部屋ずつもらって、新しい生活が始まった。でも、青虫は相変わらず私の部屋で寝る。なんでも、「夜光人間」が襲ってくるからだそうだ。まあ、大人でも、UFOにさらわれるのが怖くて、ひとりで寝たくない人がいるぐらいだから(笑)、9歳児がひとりで眠れないのは仕方ないか。

それから、妹と青虫が5月から乗馬を習うことになった。競馬好きが高じて、とうとう自分たちが乗ることに! 要するに馬が好きなのだろう。妹なんて、馬糞の匂いを嗅ぐと、精神が安定するらしいから重傷だ。乗馬といっても、ただ乗るだけではないらしい。乗ったあとの馬の世話もけっこう大変だそうだ。なにしろ体が大きいだけに、世話も大変。下手すると蹴られて命を落とす。これまた、新しい世界に突入だ。一度私も見学に行ったが、たしかに可愛いし、頭も良さそう。ホースセラピーというのがあるぐらいだから、人間と心が通じ合う動物なのだろう。でも月謝が高い!ということで、最近ちょっとさぼり気味のピアノの方は止めてもらうことに。

さらに、このたび、とうとう車を買うことになった。今までずっと車なしで生活してきたが、青虫も大きくなって行動範囲も広がってきたし、運転手(妹)もいることだし、スポンサー(母)も乗り気だし、思い切って。環境問題への異常な関心から、これまで頑なに車を拒否してきた青虫も、乗馬に行くのに必要となると、あっさり折れた。(なんだ、その程度のこだわりだったのか!笑) これでまた生活が変わる。田舎へもドライブに行ける。タマジをどこかへ遊びに連れて行くこともできる(タマジがそれを楽しんでくれるのかどうかは別として...)。ちょっと楽しみ。

私だけの深い体験もあったりして、この数週間は本当に充実していた。こういう調子のいい時期のあとには、必ず調子の悪い時期が来るような気がして、ちょっと怖い。

4月 21, 2007

緑という色

昨日、小学校のPTAの何ちゃらに出席するため、仕事を早退して久しぶりに真っ昼間の電車に乗った。線路沿いの新緑のきれいなこと!! もう息が止まりそうなほど艶々、きらきら、若葉が輝いていた。クスノキなどの常緑樹も、やはりこの時期には一斉に若葉を出す。そのクスノキの若葉が昨日はとりわけ綺麗に萌えていた。

昨日、これまた久しぶりに若い女の子とお昼を一緒に食べた。彼女に会って、うちの家の裏のクスノキを思い出した。何年か前、塩をたっぷり含んだ台風に激しく吹かれて、すっかり塩枯れしていたこのクスノキ、しばらくもうだめかと心配していたのだが、長いことかかってみごと回復し、再び瑞々しい若葉を芽吹き始めた。今ではもうすっかりもとどおり。この女の子も、また新しい葉っぱを出し始めたようだ。昨日、若葉のような顔をしていた。そういえば、きれいな緑色のビーズのネックレスもしていたっけ。

緑というのは不思議な色だ、と染織家の志村ふくみさんが書いている。草木のイメージはまず何よりも「緑」であるにもかかわらず、この緑という色だけは、草木の染液から直接染め出すことが出来ない色なのだそうだ。藍からとれる青と、キハダやクチナシからとれる黄色を掛け合わせることによってしか得られないのだとか。この重大な事実をずっと考え続けた結果、彼女は次のような結論に達している。

「やはり緑は生命と深いかかわり合いをもっていると思う。生命の尖端である。生きとし生けるものが、その生命をかぎりなくいとおしみ、1日でも生の永かれと祈るにもかかわらず、生命は一刻一刻、死にむかって時を刻んでいる。とどまることがない。その生命そのものを色で表したら、それが緑なのではないだろうか。

たとえ植物から葉っぱを絞って緑の液が出ても、それは刻々色を失って、灰色がのこるばかりである。移ろいゆく生命の象徴こそ緑なのである。」
志村ふくみ著 『色を奏でる』(ちくま文庫)より

新生児のことを嬰児(みどりご)と呼ぶのは、やはり、「みどり=命の象徴」ということから来ているのだろうか、というようなことも書いてある。たしかに、植物が「生きている」ときにしか現れない「緑」というこの色は、生命の色としてふさわしい気がする。昨日、電車の窓から、萌える若葉を見ていて確かにそう実感した。

4月 16, 2007

ビーズ細工


大学のときの同級生が脱公務員をして、家でアクセサリー作りを始めた。去年初めて彼女の展示販売会に行って、すっかり気に入ってしまい、以来、彼女の作品ばかり身につけている。彼女の家まで行くのは遠いので、いくつかの品をまとめて郵送してもらい、その中から気に入ったのを選び、残りを送り返すという方法をとっている。今回その2回目を送り返したところ。

ビーズ細工をこよなく愛する私にとって、これは本当に幸せな出会いだ。貴金属や宝石などは、自分とは別世界のものだと思っているので、あまり身につけたいとは思わないが、ビーズは違う。お店で材料など見かけると、全部欲しくなる。実際、何度かネックレス作りにトライしたりもした。小さい頃も、かなり作った。ビーズ細工のトンボ、蝶々、指輪などなど... あの豊富な色のバリエーションと、独特の質感、形。もう見ているだけで、わくわくする。

前回は、私と妹の分のほか、青虫のピアノの先生へのお歳暮用にも購入し、喜ばれた。今回は、徐々に広がりつつあるファン(私がつけているのを見て、他の人も買いたくなった)のために、送ってもらった作品を行商人のごとく持って回った。口コミで、確実に顧客が広がっている。

まずは、近所の友達の家に持っていき、じっくり品選び。うちでは、タマジが大喜びしてしまう(玉状のものが大好き)ので、広げられないのだ。ひとつひとつ胸に当てながら、互いに評し合う。ああ!この日曜日の至福の時間!(小さな鏡の中で、いきなり皺くちゃばばあに遭遇してしまったのは、実はこの時だった。※「透視術」参照) それぞれ、気に入ったのをいくつかにしぼり、同封の伝票に品名・代金を書き入れて、一段落。とにかく安いので、安心して買える(笑)。そのあと、職場にも持って行って、大好評。

この方式、信頼関係がないと出来ないが、なかなか良いやり方だと思う。このビーズ細工のほか、もっと前から愛用しているものとして、友達の弟さんが脱サラして、北陸の実家で作り始めた「無農薬ブルーベリー」がある。これは特に、私の母がすっかり気に入ってしまっており、自宅用・贈答用として活用中。こんな風に、商業主義から外れた、知り合いの作る品々で、もっともっと生活を固めていきたいと思う。

4月 13, 2007

猫力

タマジのお気に入りスポットのひとつ。ここで、鳥や散歩中の犬を観察する。カラスもスズメも子育て中で、ベランダに撒いた古米をタマジがいない間にせっせと食べに来る。町には珍しく、ウグイスが早朝から夕方まで、一生懸命鳴いている。 コゲラも見かける。


空を行き交う鳥をいちいち目で追うタマジ。この細いスペースで、くねくね、すりすり転げまわるのだから、見ていられない。(ここは3階!) まあ、そのうち落ちるだろう。

学校関係の人にとっては、超多忙なこの時期、こんなのんびりした日記をさらして申し訳ないが(というか、学校関係の人は今、このサイトなど見てないだろうな)、確定申告が終わり、月次作業もようやく追いついてきて、私の周りは「ちょっと一息」ムード。

ただ、うちの「ニート」は、あれからまもなくニートでなくなり、しかも帰宅が連日9時過ぎという過酷な勤務に就いてしまい、毎日の暮らしは相変わらずあわただしい。でも、なんとなく気分はのんびり。やはり猫の力か。

4月 09, 2007

透視術

ふだん忙しくてあまり鏡をじっくり見ないのだが、たまに明るいところで、鏡に映った自分を間近に見たりすると、ぎょっとする。いつのまにか、顔にくっきりと深い皺が刻まれているのだ。 先日、友達の家で自分の顔を見てびっくりした。この皺くちゃのおばちゃん、一体だれ!? 自分の頭の中では、自分のイメージは若い頃のままなのだ。ふだん鏡を覗くときは、無意識的にシミや皺など無視しつつ、鏡に映った現実の顔のなかに、若い頃の自分を透かして見ている気がする。だから、ちゃんと映らない鏡を一瞬眺めるだけのような生活をしていたのでは、いつまでたっても現実を知らないままなのだ。

自分にかぎらず、昔から知っている顔というのは、そういう風にして見ることが多い。学生時代からの友達に会ったときによく思う。今の彼ら・彼女らがどうであれ、その顔は学生のときのままなのだ。無意識のうちに、その顔の中の「昔と変わらない要素」のみを取り出して見てしまうのだろう。家族同士など、もっとそうだ。私にとっての妹のイメージは幼い頃のままだし、母だって、はた目にはもう立派な老女だが、私にとっては若いときのまま。青虫だって、初対面の人にとっては、口ばかり達者な生意気盛りの9歳の少女かもしれないが、私とっては、彼女のふとしたときの表情の中に、赤ちゃん時代の面影が今でも透けて見えることがある。

相手をずっと前から知っているということは、なかなか重要なことなのだなあと思う。結婚生活にしても、新婚時代にじっくり眺めた相手の顔の初々しいイメージは、きっと一生保存されるのだろう。そこに、長く連れ添うことの良さというか、秘訣があるのかもしれない。人にかぎらず、人が接するもの、たとえば動物や植物、村や街など、何でもそうだろうと思う。

でも、待てよ。この考え方を、逆に時間を遡る形で応用できないだろうか。つまり、出会ったばかりの人の、若い頃、幼い頃の顔を、時間を遡って透視するのである。そのためには色々話したり、一緒に過ごしたりする必要がある。そうして、その人の「原形」みたいなものを徐々に明らかにしていく。その人の現在の顔の中に、若い頃の顔を見つけるのだ。そうすると、相手のイメージ、相手との関わり方にぐっと厚みが増す気がする。一種の「透視術」。そんな能力をぜひ身につけたいな。

それよりまず、自分の皺を、無視せず、ちゃんと見えるようにする方が先か?(笑)

3月 30, 2007

また出た!

もう本当にすごい人!

また米原万里の本が出た。亡くなってから4冊目。

生前、ロシア語同時通訳者として名を馳せ、ゴルバチョフやエリツィンから直接お呼びがかかるほどの、ずば抜けた通訳者というだけでもすごいのに、その後、執筆業に転じてから出版される著書からつぎつぎと明らかになるのは、彼女の才能が語学だけに留まらず、舞踊にも通じ、小説も書け、優れた評論家でもあったということ。

そして、この度、この新刊本によってさらなる才能が明らかになった。なんと、彼女は偉大な発明家でもあったのだ!おまけに、「新井八代(あらいやよ)」というふざけたペンネームを持つイラストレーターでもあった!(それも、かなり上手い)

ちょっとびっくりしてしまったのが、この本に添えられた、井上ユリさん(米原万里の妹さんで、井上ひさしの奥さん)の文章の中にあった次の一文。

「姉は自分の精神の動きを、まだ十分に表現しきれていないなぁ、表現できる方法が見つかるといいなぁ、とも思ってきました。」

あんなに自由に言葉を操り、言いたいことを雄弁に語れる人だと思っていたのに、妹さんにすれば、姉の本当の姿はまだまだ隠されたままだったのだ、ということにショックを受けた。妹さんにとって、米原万里はまず第一に「行動する人」だったのだそうだ。思い立ったらすぐにやってみる。その生き生きとした感じが、姉の一番の魅力だったのだそうだ。そして、この本は、姉のその知られざる面を少しは紹介できる本だという。なんと、彼女の小さな「発明」が119個も紹介されている。全部イラストつき。

少し前に読んだ、星新一の随筆の中に、発明を奨励する一文があったのを思い出す。彼が読めば、きっと大いに喜んだだろう。

アマゾンには、まだこの本の画像が載っていなかったので、写真を載せた。

3月 28, 2007

「鴨ちゃん」の訃報

中さんからのメールで知った。

毎日新聞に「毎日かあさん」という漫画を連載中の西原理恵子さんの元ダンナさん。中さんにすすめられて、『毎日かあさん』や『アジアパー伝』など読むうちに、なんとなく親近感を抱き、一時集中的に読んだ。今、なぜか青虫が『毎日かあさん』を夢中で読んでいる。「鴨ちゃん」のことも随所に出てくる。厄介なお父さんとして。アル中で、躁鬱病持ちで、はっきりいって無職で、不安定な人だが、考え方はいたってまとも。いや、まともすぎるのがいけないのかもしれない。端正な顔立ちをした繊細そうな人だ。西原さんと一度離婚したけど、最近また復縁(結婚届は出さずに)して、これからまた親子4人で生きていこうとしたその矢先、腎臓ガンで死んでしまった。つい先日のことらしい。西原さんは3ヶ月ほど仕事を休むのだそうだ。

西原さんのことも、鴨ちゃんのことも、作品を読んだだけだし、そんなによく知らないけど、身近に感じていた。西原さんは強い人だ。いかにも土佐の女という感じがする。中島らもの奥さんもそうだ。私の母も、見た目は弱いがおそらく芯は強い。結局、ああいう男たちに最後までつき合って、ちゃんと自分の手で彼らをあの世へ送り出したのだ。ものすごく強い女たちである。私はといえば、その役割を彼の妹さんに任せ、途中で逃げ出してしまった。アメリカに住む妹さん、これまた美しくて強い人だ。

でも、そう思うと同時に、反対の気持ちも湧いてくる。その強さとは、もしかしたらある種の「弱さ」と裏腹なのかもしれない、と。そういう女たちは、強く生きるために、ああいう自滅型の男を必要としてしまうのではないか。そこに働く引力は複雑すぎて分からないけど、とにかく「あんな男と一緒にならなければ、もっと幸せな暮らしができただろうに」とか、そういうことは絶対にない気がする。なにか必然性があってくっついている2人なのだ。自分の本領?を発揮するために、相手を必要とする関係だったのだろうと思う。 男と女の関係は本当に不可解だ...

とにかく、鴨ちゃん、42年は長かったね。どうかあの世では安らかに...

3月 26, 2007

お初と徳兵衛


別ルートでの通勤を模索し始めて1ヶ月。ようやく定まってきた。なるべく「川の下線」は使わない。(私はもはやあれを「東西線」とは呼ばない。※2/15の日記「恐ろしい事実」参照) これまで使っていた「川の下線」の駅から職場までは歩いて8分だったけど、今度は大阪駅から歩くので、たっぷり20分はかかる。まあそれぐらい歩いた方が体にもいいし。

というわけで、日本一乗降者数の多い駅を、一日で一番乗降者数の多い時間帯に利用する。もうほとんど「砂漠の砂のひとつぶ」と化す。なにせ、電車を降りて、ホームから改札へと降りる階段を下りるだけで1~2分かかる。人であふれかえって降りられないのだ。その間、ひたすら人間観察。 ああ、これって、みんな神戸方面から来た人ばっかりやから、こんな順番待ちに耐えられるんやわ、きっと。 もしこれが全員大阪人やったら、苛立って苛立って大変やろな...(→大阪人に対する偏見)とか。

そして、途中、曽根崎にある「お初天神」という神社を通って行くことにしている。本当は「露天神社」という名前らしいが、その昔、ここの森でお初という新地の遊女と、徳兵衛という商人とが心中をしたとかで、以来ここはお初天神と呼ばれている。有名な人形浄瑠璃「曽根崎心中」のモデルとなったお話である。お初天神の境内には、人形浄瑠璃のお初と徳兵衛が、仲良く寄り添う写真が飾られている。このツーショットを見るたび、なぜか涙ぐんでしまう。あの世でちゃんと結ばれたかな...とか思いながら。 毎朝、ここを通っては感傷的な気分になって、そのあと、すぐとなりに立っている「Africa」という安っぽくて派手なラブホテルの横を通るときに気分がさめる。

梅田の朝は早い。お店もみんな開いていて、いろんな匂いがしていて、汚くて、活気があって、なんとなくカルカッタを思い出す。

3月 18, 2007

最近のタマジ

ついでにもう一枚。最近、なぜか水道から直接水を飲みたがる。ちょっと出してやると、上手に飲むが、その後ついでに排水口をいじったり、水滴の流れるのに見とれたりして、最後には体中ずぶ濡れになってしまう。猫が水を嫌がるなんて誰が言ったんだろう?本にはよくそう書いてあるけど。全く嫌がらない。

ニートの効用


写真は妹の手にじゃれるタマジ。(まあ特に何てことない一枚だが、もう赤ちゃんの域を脱したタマジの顔をひと目見てもらおうと...)

というわけで(どういうわけだ?)、同居人がまた増えた。こんどは人間。青虫の競馬の師匠、つまり私の妹だ。考えてみれば、私にとっては自分の高校卒業以来(ということは、ほぼ20年ぶり??)、そして青虫にとっては初めての叔母との同居ということか。青虫はもう、それはそれは楽しみにしていたようだ。学校でも、近所でも嬉しそうに言いふらしていた。(実は妹、ちょっと傷心ぎみで帰ってくるにもかかわらず...)

「ニートが帰ってくるねん!」と、覚えたての言葉を使って、嬉しさを表現する青虫。「ニート」というのは、青虫とその仲間たちにとって何とも甘美な印象を伴った言葉のようだ。「学校にも行かず仕事もしてない大人」、それは即ち、「自分たちの相手をしてくれる大人」を意味する。しかも、普通の大人のように説教臭くない。時間に余裕があるので、目線が子どもに近い。実は、私には何人かの「ニート」に分類されてもおかしくない年下の友達(元生徒)がいるのだが、青虫は彼女たちのことが好きだ。彼女たちには心を開いて接する。思えば、子どもの成長にとって、主婦でもなく、仕事もしておらず、毎日ぶらぶらしている大人というのは、もしかしてものすごく必要な存在なのではないだろうか。私にとっては、それは父だった(それはそれで、ちょっと問題があったのだが...) そういう大人から、子どもは驚くほど多くのことを学ぶ。

私にとっても有り難い。家にいる大人が皆、お金をかせぐ仕事をしている家というのは、人的な余裕が全くない。夕方、帰ってきてバタバタと洗濯ものをしまい、急いで夕飯を作って、お風呂の用意をする。そのあいだ、きょうだいがいる子はいざ知らず、青虫はたいていゲームかテレビということになってしまう。そのときに、手の空いた大人がひとり居るだけで、夕飯待ちの風景は全くちがったものになるということが分かった。夕飯を待つあいだ、2人で一緒にタマジと遊んだり(なぜか青虫ひとりでタマジと遊ぶことはあまりない)、猫の写真集を眺めたり、外に猫草を探しに行ったり... 私は、テレビに子守をさせているという負い目なく、安心して夕方の用事を片付けることができる。何という気楽さ!なんという心地よさ!

働いていない、しかも健康な大人が家にいるというのは、その家の心の余裕を表すと考えてもいいんじゃないか。ふとそんな風に思った夕べのひとときだった。 まあ、妹もそのうち仕事を始めるだろうし、新しい相手が見つかれば、また出ていくだろうから、それまでのつかの間の「余裕」をみんなで楽しもうと思う。 「余裕」といっても、現実的には、今までより多く私の怒鳴り声が響き(妹は散らかす名人で、いわゆる「片付けられない女」なので)、住空間は狭くなり、食事の支度や洗濯物は増える...という、決して優雅とは言えないものになるのではあるだろうけど。

最近はっきりと分かってきたことがある。「時間的余裕は少ないけど、経済的には困らない生活」と、「貧乏だけど、花鳥風月、山川草木を愛でる時間のある生活」とだったら、絶対の絶対に、私は後者を選ぶということ。質素な生活には耐えられる。けど、心に余裕のない生活には本当に耐えられない。そういう点で、青虫の父親と私はよく気が合っていたと、今さらながら思う。そういえば彼も、私の父も、「ニート」と「非ニート」(?)の境界をウロウロしていた人だ。私も本質的にはそうだし。

3月 11, 2007

書評

私は本というものを読まずに育った。読んだのは、せいぜい蝶図鑑とか、バッハの伝記ぐらい。小説や物語のたぐいは、恥ずかしいほど読んでいない。そのせいか、どうも語彙に乏しい。何かを言おうとしても、ぴったりの表現が見つからずに苦労することが多い。だから、言語能力の高い人を無条件に尊敬する。思いや考えを的確な言葉で表現したり、説明したりできる人。そういえば、これまで私が好きになったことのある男性は、文章力に長けた人が多い。自分にないものを持っているからだろう。

そんな私も、ある人との出会いがきっかけで、ここ数年よく本を読むようになった。最近は音楽をきく時間よりも、本を読む時間の方が長いぐらい。今までの自分からは想像もできないことだ。

でも、やはり本物の読書家には全然かなわない。ほんものの読書家は、とにかく読む量がちがう。自分の嗅覚を頼りに、どんどん色んな本を読んでいくようだ。秀作も駄作も、ひととおり目を通す。本に対する自分の感覚に自信があるからだろう。それに対して、にわかリーダーの私は、自分の感覚に全く自信がないので、人から評判をきいて、最初から面白いと分かっている本だけを読む。そういう導きがないと読めないのだ。

というわけで、私は書評を読むのが好きだ。新聞の書評欄には必ず目を通すし、自分の好きな人が何か本を紹介していたら、すぐにそれを本屋で探してみる。そして、この度、これ以上のものは望めないともいうべき本が出た。

米原万里 『打ちのめされるようなすごい本』(文芸春秋)だ。最近すっかり彼女の世界にはまってしまっている。これは彼女が生前いろんな所で書いた書評を、彼女の死後まとめた本。さすがにロシア・東欧関係の本についての書評は専門的すぎて読み飛ばしてしまうが、他にも面白そうな本がいっぱい紹介してあって、読みたくなる。何より、彼女の批評文そのものが素晴らしい。こんなに頭が良くて、言葉を自由に操れる女の人はちょっといないと思う。まるで男の人。

彼女の死後出版された本は、もう一冊ある。『他諺の空似』(光文社)という本。これも面白かった。「ことわざ人類学」などと銘打っているものの、中身は徹頭徹尾、ブッシュ批判、小泉批判、近代文明批判の書だ。それに、かなりエロい小咄が毎回冒頭に登場する。小咄好き、下ネタ好きの彼女のこと、実はそれが一番書きたかったんじゃないかと思うほど、そのエロ小咄が冴えている。中にはかなりどぎついのもあって、ちょっと辟易する人もあるかもしれないが。

ある精神科の先生(青虫の父親、つまり私の他ブログ、Thinking Women の作者が生前お世話になっていたT先生)が、不定期に書き送って下さる小冊子をいつも楽しみにしている。中心的なテーマは「反戦」で、それに先生の近況や、先生が取り組んでいる禅のこと、最近読んだ本などの紹介が添えられている。毎回充実した内容で、忙しい業務のかたわら、よくこれだけのものが書けるなあと、いつも感心する。その新年号に2冊の本が紹介してあった。

『アメリカに「NO」と言える国』(竹下節子著)と、『グラウンド・ゼロがくれた希望』(堤未果著)だ。いずれも、反戦という視点から、はっとさせられる優れた本として紹介されており、T先生いわく、「こうした視点が、現在の日本からではなく、日本と外国との間に身を置いた人から出てきているところに、日本国内にいただけでは、思考を封じ込められるという事実を突きつけられる思いがする」と。そういえば、米原万里も、日本とロシアというふたつの世界に身を置いた人だった。

T先生も、いわゆる読書家で、信じられないぐらい沢山の本を読む。書評好きの私としては、彼のウェブサイト中にある「読書室」が気に入っている。(T先生、勝手に紹介してすみません!)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/bankyu/contents.htm
(読書室は「隠し部屋」の中にあります)

ちなみに、私をすっかり本好きにした「ある人」というのは、特に読書家というわけではない。むしろあまり本を読まない人というべきかもしれない。私と同じで音楽人間だ。だから共鳴したのだろうか。その辺がまた人生の面白いところだと思う。

3月 03, 2007

理想の人

この一週間は本当に苦しかった。ばりばり仕事をこなしていたからではなく、その逆。何ひとつ出来なかったのだ。病気のせいで。回復するのに、たっぷり1週間かかった。その間、仕事は1回欠勤。家事はほとんど母任せ。育児は放棄。情けないったらない。母が死ぬほど忙しいときに、それを手伝うどころか、かえって面倒をかけてしまったのだ。

体もつらかったが、何がつらいって、この無能感が一番つらい。肝心なときに役に立たない自分の無能さを思い、プチうつ状態になる。どうにかしたいのに、どうにもならなくて、ひとりになるたび涙が出る。もうこの先、自分は何ひとつ前向きなことは出来ないのではないかと極端に悲観的になる。何事もなく過ぎた平凡な日々が、ただひたすら恋しく、なつかしくなる... ほんの短期間の体の不調でも、こんな思考回路に陥るのだから、長期間、もっと深刻な病で苦しんでいる人の落ち込みは、いかほどだろうと思う。

イスラムのラマダン(断食)が、食べられない人や、食べられないことの苦しみを忘れないために(本当にそういう意味かどうか分からないが、そうだとしたら、なかなか優れた行事だと思う)、定期的に全信者によって敢行されるように、毎年この時期に私が罹る病気もまた、健康なときには決して分からない「病苦」というものを思い出させるための、年中行事とでも思っておくことにしよう。あ~、それにしてもしんどかった。

その苦しみの最中、幽霊のような格好で何とか出勤し(担当会社の申告期限が2月末だったので)、帰りの電車、死んだような状態でぐったりと窓にもたれて座っていた。すると、次の駅で隣に年配の男性が座った。2人掛けの席である。すると何だか変な妄想が湧いてきた。このじーちゃんが、なんとなく温かそうな印象の人だったからだろう。とつぜん私に向かって優しく話しかけてくれそうに思った。「あんた、しんどそうやな。生きてたら、そういうときが必ずあるわな。そやけど、ようがんばっとる。あんたは、ようがんばっとるで。」 もう心の中では、この人が本当に私にそう言ってくれたことになっていた。そう思ったとたん、この人に抱きついて1時間ほど思い切り泣いてみたい衝動に駆られた。ここで、この人が「見知らぬじーちゃん」だったということが肝心だ。ほかの人では駄目なのだ。

この一件で、私の「理想の人」がはっきりと分かった。包容力のある、賢者風の「じーちゃん」だ。人生経験をつんだ、温かい知性をもった賢老。おそらく若い頃は体を使う仕事をしていて、老いたあとでも体は丈夫、するどい観察眼をもっていて、口数は少ない。有り余る精力が、外へ向かずに、ひたすら内面に向かって自己を鍛錬したような人。『ゲド戦記』のゲドとか、ゲドの師匠のオギオンとか、宮崎駿の作品によく出てくる賢人風の人物(「ナウシカ」のユパさま・ハイジのおじいさん等)みたいな。もちろん、そんな人は現実にはいない。架空の存在だ。でも、私の心が幼い頃からずっと探し求めている人であることは確か。昔から、私が恋人として頭に描いてきたのは、パートナー的な人ではなく、私を温かく包んでくれそうな老人だったのだ。生身の人間ではなく、想像の産物。結婚がうまくいかないのは、その辺に理由がありそうだ。

・・・と、とんでもないところにまで思いが及んでしまったが、実はもうそんな時間はない。病気の間に滞ってしまったこと多数。これから大急ぎでそれらを片付けないと。う~ん、追いつけるかな...(泣)

追伸: ゆみごろうさん、私も一週間遅れで、全く同じ経過をたどりましたよ!(笑)

2月 19, 2007

菜の花


青虫の通っていた保育所の園庭に咲いていた菜の花。金網ごしに撮ったので、金網を避けようと、どアップになってしまった。

ちょうど今は新月すぎで、山の端に夕月がかかるまでには、もう半月かひと月半か待たないといけないが、そろそろ「おぼろ月夜」を頭の中で口ずさむ季節だ。あの歌の、特に2番?の歌詞が好きだ。

里わの火影も 森の色も 
田中の小道をたどる人も
かわずの鳴く音も 鐘の音も 
さながらかすめる おぼろ月夜

~も、~も、~も... と続いて、それら全部が霞んでいる、と結ぶこの歌詞。すごくいい。これに歌われるそっくりそのままの情景を子どもの頃の実体験として持っていることは、なんと幸せなことなのだろうと思う。もう2度と体験できそうにないだろうと思うので、よけいに。

かめちゃんは無事、冬眠を終えた様子。本当に、冬の間ずっと飲まず食わずで、水の中でちゃんと生きていたのだ。もう驚きのひとこと。昨日、水槽を洗ってやると、元気に動き始めた。すごいなあ。問題はオオクワガタ。こちらは何故か冬眠しない。冬中ずっとエサが減り続けていた。(あんた達も、ちゃんと寝なさい!)

沈丁花も咲き始めた。まだちゃんと面と向かって挨拶してないけど、心が躍る。

さて、そろそろうちは農繁期に突入。母の老体がもつかどうか。私ももっと手伝わねば。

2月 16, 2007

恐ろしい事実

昨日、友達が引っ越したというので、その引っ越し先のあたりをネット上の地図で眺めていて、とんでもないことに気づいてしまった。その引っ越し先というのは、私がいつも電車で通るあたり。つらつらとその周辺を眺める。もう少し、地図の範囲を西に動かすと、大きな淀川が流れている。ちょうど「御幣島」と「海老江」(いずれも、私の使うJR東西線の駅)の間だ。ええっ!ちょっと待って。その間に川なんかない!その辺はいつも地下を走ってる... 思わず、同僚に聞いた。

「東西線って、どうやって淀川を越してるんですか?」

「え、そら、川の下通ってるんやん。」

いとも簡単に答えられてしまった。(というか、今まで知らんかった方がおかしい。) どうしよう、どうしよう。私の動揺が始まった。そんな...毎日川の下通ってたなんて... 私は科学技術を過信するのは一番嫌いだ。誰よりもそれを疑う人間だと思う。それなのに!

そう思って、帰りに確かめてみた。あれ?尼崎に向かう直前、線路が地上に出て、何か大きな川をちゃんと鉄橋で越した。んん?これって淀川?? な~んだ、ちゃんと地上に出てから越してるんやん。もう、びっくりさせんといてよね。

とほっとしたのもつかの間、今さっきもう一度ネットの地図で確かめてみたら、尼崎近くで鉄橋で越える川は、淀川ではなく、神崎川だった(大阪は本当に川が多い)。うえ~ん、やっぱり淀川は川の下を通ってるんや~(泣)。しかも、神崎川より、はるかに川幅も広い~(泣)

というわけで、根っからの地理音痴な私の間抜けな話です。

ああ! 今までずっと、「知らぬが仏」で使い続けてきた東西線だけど、この恐ろしい事実を知ってしまった以上、別のルートで出勤する方法を考えなければ。 とりあえず、今日は命がけで東西線を使うけど。  来週からはどうしようかな...
 

2月 10, 2007

地震みたい?

木曜日。仕事から帰ると青虫とタマジが家でのんびりしている。タマジは寝ていたのだろう、あくびの連発。青虫はいつものように、テレビでドラゴンボールを見ている。いつものことだ。ただ、木曜日は6時ぐらいに青虫のピアノの先生が来てくれるので、私は20分足らずのあいだに着替えをすませ、部屋を掃除して、なんとか人を迎え入れるための体裁を整えなければならない。週も半ばになると、部屋はかなり荒れている。ピアノの先生は動物が苦手な人なので、特にタマジによる汚れ、散らかりは放置できない。時間がない!

そんな私の焦りとは裏腹に、青虫は極めて呑気。「あ~、先生、遅刻してくれへんかな~。今ええとこやねんけどな~」などとほざいている。何故か分からないが、突然私のイライラが頂点に達した。「そんなにドラゴンボール見たいんやったら、もうピアノやめたらええやんかっ!」 びくんとする青虫。それから、立て続けに私のガミガミ。「タマジのトイレ掃除まだしてへんやんか!」「脱いだもんはあっちへ持っていく!」「もう先生くる時間やからテレビ消しとき!」これを順繰りに3回ぐらい怒鳴る。私のイライラ度の高さを察してか、いつもより従順に動く青虫。私の母まで、私の怒鳴り声を聞きつけ、仕事場から出てきて青虫と一緒に右往左往している。まるで天災に襲われた住民たちのよう。

その日、なんであんなに爆発してしまったのか、未だに不明。自分でも分からないのだ。すべていつも通りだったのに。疲れていたのだろうか。

Naomi様の日記で紹介してあったサラリーマン川柳のサイトを覗いてみたら(面白いのがいっぱい!)、その中にこんなのがあった。

「予知不能 ~の怒りの 時期と規模」

「~」の部分、その川柳では「妻」になっていたが、それを「母」に変えて、青虫に教えてやりたい気がする。私は外面がいい分、家では結構ガミガミやっていると思う。ガミガミやっても、決して気分は晴れず、むしろ後から自己嫌悪に陥るだけなんだけど... 「~」の部分に「私」と入れれば、これまさに私の気持ち。

青虫には、昨日も怒鳴ってしまった。余震だな。

2月 08, 2007

幸せの茶色い液体

「幸せの黄色いハンカチ」のもじりだと分かってもらえただろうか。

最近、色々と出汁を試してみている。今までは、だし昆布と液体だし(コープ商品。人工調味料無添加)を併用していた。これは文句なしに美味しい。でも、この液体だし、結構なお値段で、和食が中心の我が家では消費量が激しく、結果、ものすごい出費となる。そこで、なにか代替品がないかと模索中なのだ。

それで、色々試してみた。何しろ、調理に費やせる時間が限られているので、昆布(これは浸けておけばいいだけなので使う)の他は、やっぱり液体だしが便利。粉末だしは、あんまり美味しくないし、酢の物や和え物など、汁物以外には使いにくい。そこで、他の2種類の液体だしを試してみた。いずれも、名前は立派なのだが、味はいまいち。アミノ酸(人工調味料)が入ってるから後味悪いし。

そして、とうとう原点に戻って、ちゃんとかつお節でだしをとることに。でも、かつお節だけ使うと高いので、業務用の削り節(かつお以外にも、サバや小魚などが混入している)を買ってみた。かなり分厚く削ってある。昆布と、この削り節で出汁をとってみた。すると、もうめちゃくちゃに美味しい!ものすごく濃厚な出汁がとれるのだ。おととい、そして昨日と、それでみそ汁を作ったら、もうたまらない。2~3杯おかわりしてしまった。後味まで素晴らしい!

それで思い当たった。これなのだ。寒い朝のうどんに含まれる「しあわせ」は。寒くなくても、うどんじゃなくても、同種のしあわせ感が、確かに今ここに。ということは、要するにあの「しあわせ」の正体は、昆布と削り節で丁寧にとった出汁だったのだ。おそらく、化学的には分析できない何かが、きっとそこにはあるのだろう。

そうと分かったからには、これからもこの出汁でいこう。(できるだけ)

ひとつ誤算だったのは、出し殻はタマジが食べてくれるであろうと期待していたのが、見事に裏切られたこと。見むきもしない。このぜいたくもん!! 

ということで、出し殻は昆布と一緒に、うどん屋さんを見習ってつくだ煮にしよう。
(できるだけ)

2月 03, 2007

上機嫌

昨日の朝、タマジが一点を凝視したまま固まっていた。立入禁止の部屋に首尾よく忍び込んだにもかかわらずだ。いったん入ったら、つまみ出されるまで、いつもなら一秒の間も惜しんで探険しまくるのに、今日は何故かその魅惑の部屋の真ん中に、正座して固まっている。その視線の先は…?

どうやら視線の先には母の姿があるらしかった(私からは見えない)。「何やっとん?」と聞くと、「ラジオ体操」と母。タマジは母のラジオ体操を鑑賞していたのだ。ものすごく真剣に。老女の怪しい動きにじっと見入る、あのタマジの表情! 動物が人間の芸を観るという、ヘンテコ劇場みたいな、あの逆転した構図! なんか無性に可笑しかった。

それですっかり気を良くした私は、良くなりついでに、朝うどんをすることに。

大阪に着いて、地下の駅から地上に出る。寒い。お腹も空いている。トイレにも行きたい。そして、始業までの時間的余裕も多少(?)ある。条件は整った!そこで、例の「かけうどん(小)」105円也。(その前にトイレを借りて...) ああ!なんという至福の時!

今のこの状態を形容するのに「しあわせ」以外の言葉を私は知らない。(う~ん、なかなか良い表現だ)

惚れた男との熱い一夜か、寒い朝の一杯のかけうどんか、どっちをとるかと聞かれたら(誰が聞くねん)、どうしようかな... これ、けっこう真剣に悩んでしまうよな... やっぱりうどんかな... いや、努力しだいで両立も可能かも...(どんな努力やねん)

などと、いろいろ頭に浮かぶ考えに、適宜つっこみを入れつつ、ほくほく顔で職場に向かった。やっぱり冬はこれぐらい寒い方がいい。

昨日(今日?)は満月。夕方、近所の山から真っ赤なのが出ていた。

梅が咲き始めた。そういえば、今日は立春か。

1月 31, 2007

猫フンのちから!


写真はうちのマンションの入り口に咲いている、例の水仙。(詳しくは1月23日の記事「発情期?」のコメント参照) 真ん中へんの水仙だけ、異様に育っているのが分かる。これが、春・夏・秋と、近所の野良猫(でもアメショー)のおトイレになっている箇所。ものすごい「栄養」だ。 それに比べて、タマジの「栄養」は毎日むなしく我が家のトイレに流されるだけ... ちょっともったいないかな?

1月 27, 2007

コメント

新年の日記、「迎春」に友達がコメントしてくれてたのに、今まで気づかなかった。
(ごめ~ん、uyaちゃん!)

このブログ、コメントの有無が分かりにくいのが難点。
サイドバーに「コメント一覧」みたいなのが作れたらいいんだけど... 
どうやって作ったらいいんだろう。また今後の課題としよう。

1月 25, 2007

ちぢみほうれん草

最近はまっている野菜。「ちぢみほうれん草」という名前で売り出されている。産地は群馬県。

とにかく甘い!その甘さにまず驚く。形は普通のほうれん草より肉厚で、名前のとおり縮んでいる。たんぽぽの葉みたいに、地面に這いつくばるようにして生えているらしく、売られている姿は何となく平べったい。冬にだけ採れるそうだ。一所懸命地面に張り付いて、冬の寒さに耐えようとしているのだろう。冬のほうれん草は冬越しの養分を貯めようとするためか、普通の種類のも甘い。でも、この種類は、普通のよりも用心深いのだろうか、それとも怖がりなのだろうか、異常なほど甘みを貯めている。精製すると砂糖がとれるんじゃないかと思うほどだ。

肉厚なので、加熱してもあまり量が減らないのも嬉しい。

地面を這う形なので、かなり土がついているのが難点といえば難点だが、大量の水の中に手でちぎって放り込み、思いっきりかき回し、土を下に沈めておいて、上に浮いた葉っぱだけをザルにつまみあげる、というのを2~3回繰り返すと、土はとれる。

油いため、おひたしや胡麻和え、グラタン、シチューと、何に使っても美味しい。ほうれん草好きの人には、きっとたまらないと思う。お店で見かけたら、一度お試しあれ!

(写真:タマジがひやかしで食べているところ。彼が本当に食べるのは水菜。)

1月 23, 2007

発情期?

外に出たい。とにかく外に。どんなに寒くても、危険でも、外の世界へ飛び出したい!

もう外へ出ることで頭がいっぱい。外へ出たいと叫ぶ鳴き声が日増しに大きくなってきている。最初、「うぉん?」(出たらあかん?)と伺いを立てる感じだったのが、次第に「や~ん」(出して~)になり、最近では「にゃわ~ん!わぁ~わぁ~ん!」(出して~な、もうっ!なんで出たらあかんねん!)、みたいな感じである。

なんでも、新春のお慶びの時期は猫の発情期の第1回目。(年に何回か来るらしい。)獣医さんによると、オスが発情するわけではなく、メスが発情し、それを嗅ぎつけたり聞きつけたりして、オスが反応するそうだ。(人間も同じかもしれない、と思うときがある。)

実は、タマジ、この度やむをえず手術を受けさせた。立派なチェリーが、今はもう... 都会で、不自然な暮らし方を強いた上に、身体の改造までするなんて、なんとひどいことだと思うが、マーキング、徘徊、喧嘩などを防ごうとすると、これしか手がないのだ。ああ!でも、それらこそ、猫のオスと生まれて、立派にこなしていくべき課題の数々なのではないだろうか。

でも、徘徊への衝動は一見したところ日増しに大きくなるばかり。

ちょっと嬉しい。

1月 16, 2007

復讐あるいは警告

またニワトリが大量に処分された。1万2千羽も。ゴミかなんかのように。ナチスの大量虐殺と何が違うのか分からない。それより少し前には、健康に育ったキャベツや白菜、ピーマンなどが、これは価格が下がるという理由で大量に廃棄された。 

一方で、相次ぐ自殺や殺人におののき、教育の場で「いのちの大切さ」を教えよう、などと言っている。あほかと思う。 家畜や害獣、もっと言うなら樹木や草花ならいくら殺してもよく、人間はひとりでも殺してはいけないという理屈は、子どもにはきっと分からない。 いや、大人だってそんな理不尽なことは分かりたくない。

タイトルの「復讐あるいは警告」は、去年の5月に亡くなったロシア語同時通訳者、米原万里の『真夜中の太陽』(2001年 中央公論新社)の中の1節に付された題である。この文章の中で、米原は言う。

 「大体数の人々が、自分自身か、自分の家族か、あるいは身近な人々が生き物を殺し食物としていくプロセスを日常的に見知っているあいだは、無駄な殺生を戒める倫理観や美意識が、どの民族の宗教や風習にも息づいていた。
 しかし、分業が進み、防腐・冷凍技術が発達し、輸送運搬手段が発展を遂げるなかで、生き物が食べ物になっていくプロセスは、殺生も含めて圧倒的多数の人々からは隔離された形で進行するようになった。」

「数年前、騒がれた狂牛病(BSE)や、鶏の奇病、いずれも自然な環境に生息する動物ではなく、人間による大量生産と大量消費のために、過度に密集した生息環境に置かれ成長を促進するホルモンや薬物を投下された家畜が発症している。」

「今の、食料をまるで工業製品のように生産し、消費物資あつかいするあり方を続ける限り、食中毒問題は、今後も限りなくわれわれを襲ってくるだろう。これは、命を削られる生き物たちの復讐でもあり、人間に対する警告でもある。」

この文章は、O-157による食中毒の発生、雪印乳業のずさんな管理によるブドウ球菌の混入などの事件を受けて書かれた記事であるが、状況は今も全然変わっていない。O-157が鳥インフルエンザに、雪印が不二家に変わっただけのことだ。

人間以外の生き物の命をモノのように扱えば扱うほど、人間自身の命もモノのようになっていくという構造があるように思う。 命の大切さを教えたいなら、まず人間のせいで人間以外の生き物に害が及んだり、迷惑がかかったりすることをなるべく減らし、動植物を、工業製品としてでなく、生き物として敬う態度を、他ならぬ人間の大人たちが言葉の上だけでなく、ちゃんと行動で示すべきだろうと思う。

1月 15, 2007

臘梅(ロウバイ)

近所に咲いているロウバイ。花が蝋細工のように見えるので蝋梅というそうだ。強い芳香をあたり一面にまき散らしている。

1月は、いつもこの花を楽しみにしている。花の乏しいこの時期に、ひとり豪華に咲いている。競争相手がいないから、もう少し手を抜いても大丈夫だと思うのに、見た目も香りも極上品。身も心もボロボロという時でも、その香りを肺いっぱいに吸い込むと、身体全体が清められ、新しい活力がわくような気分になるから不思議。

水仙も咲き始めた。同じく、清らかな香りのする花だが、ロウバイにはかなわない。

2月に楽しみにする花は、何といっても沈丁花。これにはどんな花もかなわない。ロウバイの盛りが過ぎるのを惜しみつつ、沈丁花を楽しみに待つときの気持ちは、何ともいえず贅沢だ。

1月 06, 2007

コメントの際に

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1月 05, 2007

冬眠という神秘

タマジのことばかり書いているが、実はうちには他にも人間以外の生き物が住んでいる。オオクワガタ2匹(つがい)と、ミドリガメ1匹である。オオクワガタは、職場の所長にもらった。ミドリガメも、友達からもらい受けた。いずれも、タマジと同じ、大阪生まれの神戸育ち。

オオクワガタが冬眠するのは分かる。なんとなく、土にもぐって寝ている姿が想像しやすい。でも、問題は亀ちゃん(未だ名無し)! 何しろ、爬虫類がちょっぴり苦手な私は、亀を飼うのは初めてで、その生態がよく分からない。気温が下がり始めた頃から、めっきりエサを食べなくなった。その後、全くエサを食べなくなってから、もう1ヶ月近く経つ。排泄物もない。まさか死んでいるのでは??と思い、おそるおそる中(水を少し張った水槽の中に置いた「クリープ」の瓶の中で寝ている)を覗いて、つっついてみると、生きている。やっぱり冬眠しているんだろうか。この亀ちゃん、まだ甲羅の大きさ5センチぐらいの子亀。もしかすると、初めての冬なのかもしれない。

虫ならまだしも、ある程度の大きさの生き物が、何も食べずに何ヶ月も眠り続けるというのは、こうやって目の当たりにしてみると何とも不安なものだ。時々、死んでないか確かめたくなる。いや、ほんとに途中で死んでしまうかもしれない。でも、亀にしたら、これが普通なのかもしれない。冬眠中だから、放っておけばいいのか。あるいは、何かしてやらないといけないのか、いま途方に暮れている。上野動物園で熊の冬眠が見られるそうだ。たずさわるスタッフは、きっとドキドキものだろう。

思えば人間も同じかもしれない。人間だって、何もせず、摂取するもの、排出するものを極力減らしてひたすら眠るという状態になることがある。他の人から見て、時にそれは「うつ状態」と呼ばれたりすることもあるだろう。名前は何であれ、要は「冬眠」に近いものなのだろうと思う。きっと、何か厳しく辛いものを命がけで「やり過ごす」姿なのだ。周りの人はうろたえる。どう接して良いのか分からなくなる。本人もそうだろう。人間にも冬眠する個体があると考えた方がいいのではないか、という気がする。

1月 02, 2007

あかん...

夜、みんなで百人一首かるたに興じていると、どうしてもタマジがど真ん中に寝そべる。何回のけてもだめ。

神戸の街

ハーブ園からの帰りは、ロープウェイで一気に下山。タマジが家で待ってるから早く帰らねば、という理由だが、実はみんな疲れていた。日ごろの運動不足のせいで、あれっぽっちの山登りでもくたくた。ロープウェイの中から見た神戸の街。帰る頃には曇っていた。

エメラルド

雌滝から雄滝へ向かう途中、深い淵があった。水が綺麗なので、深いエメラルド色。底にある石が全部トルコ石のような色に見えた。

去年のクリスマス、サンタさんに「緑の石」を注文した青虫は、トルコ石の小さな原石をもらった。
青虫:「サンタさん、あの石、ここで拾たんちゃう?」

この写真のところから少し行ったところに、「鼓滝」というところがあった。小さな滝の下に広がった大きい滝壺が、けっこう深くて、山道からそこに石を投げ入れると、ずぶっと深い音がする。小さな石だと、ぽすんと小太鼓の音がする。周りの地形のおかげで、なるほど特別な音がする。「鼓滝」とはよく言ったものだ。

龍神さん

雄滝のそばの竜神さん。「白々龍神」と書いてあった。なぜか、りんごとみかんが滝壺に浮かんでいた。そばには割れた一升瓶。海老の煮染めの残骸。でも、冷たく引き締まった空気と、ゆらめく蝋燭の光、あたりに漂うお線香の匂いのせいか、それら全てが厳粛に見えた。

迎春


住所が分からなくて賀状を出せない皆さま、1日遅れですが、(たぶん年賀状も1日か2日遅れのはず...)

新年あけましておめでとうございます

今年のお正月は、近所の神社への初詣はやめにして、新神戸駅の裏手にある、「布引の滝」に行ってきた。布引の雌滝・雄滝、布引ダムを経て、山頂の布引ハーブ園に至る小1時間ほどの山道。途中に龍神さんをまつった小さな祠や、甘酒などを出す小さな茶店なんかもあって、なかなかいい。

写真(画面右手を流れる白い筋)は、雄滝。水量がものすごく少ないのは何故なんだろう。一昨年は、もっと水量もあって雄々しかった気がする。天気が良くて暖かかったので、いいピクニックになった。