石牟礼道子さんの本の中には、「この世とあの世のあわい」という言葉がよく出てくる。
私の祖母が、どうやら最近、そういう世界に生きているらしい。92年間、苦労に苦労を重ねた人だ。1個の原子爆弾が彼女の人生を大きく変えた。一人で暮らしていて、今でもしっかりコープの注文書など、自分で書いて食料を注文し、炊事洗濯なども何とかひとりでこなしている。でも、ぼんやりしていると、聞こえるはずのない声が聞こえたり、居るはずのない人が居たりするらしい。ラジオの声が自分を馬鹿にしたり、テレビの人が急にテレビから出てきたり。
先日など、死んだはずの親戚が部屋にいて、「そこ、ちょっと使いたいから、あんた早くのいて」と言われ、急いで身支度をして、隣の部屋に退いたのに、よく見ると、その人はいなかった...などということが、頻繁に起こるようになっている。油断するとすぐに、こんな「あわい」に入り込んでしまうようだ。
母が週1回、日用品などの買い物をして届け、一緒に昼ごはんを食べて帰ってくる。その時と、コープの注文書を書くときだけが、現実に戻れるときなのだろう。母の来訪を本当に心待ちにしている。
電話はしょっちゅうかけてくる。いつも母が出る。この前は可笑しかった。夜に祖母が電話をかけてきて、色々と話したあと、母に、「あんたたち、もうそろそろ死ぬる頃?」と聞いてきたのだ。広島弁で「死ぬ」ことを「死ぬる」という。おそらく、「もうそろそろ寝る頃?」と聞きたかったのだろう、でも、何しろ「この世とあの世のあわい」に暮らす祖母のこと、彼女のなかでは、もはや死ぬることは、寝ることに限りなく近いのだろう。笑うべきかどうか、母は瞬間に判断できず、絶句していたところ、祖母の方から、「ああ、ああ、死ぬるんじゃなくて、寝るんよね」と笑ってくれたそうだ。
最近になって、これまでずっと封印していた原爆体験のことを、母に語り始めたそうだ。それが一部私たちにも流れてくる。広島弁で語られると、なんとも柔らかで、切ない。
原爆のことを考えると、ドイツのしたこととどちらが残酷なのか分かりませんね。そこには、日本人なら民間人を大量に虐殺しても構わないという人種差別意識がなかったと言えば嘘になるでしょう。どうしてアメリカが裁かれないのか憤りを感じますが、勝てば官軍とは良く言ったもので...
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