2月 28, 2008

別人?


公園で拾われた直後のタマジ。(きゃさ、無断で画像を拝借したよ!) こんなに頼りなげで、いたいけだった子が、今では...

こんな小太りのおっさんに!(比べるために、同じポーズをとらせてみた。) 大きかった耳が小さくなり(顔が大きくなったため)、長かった肢が短くなった(胴回りが太くなったため)。尻尾がちゃんと、ふさふさになったのは良かった。前はあんなに出来ていた「特大回転ジャンプ」が、今では「しょぼい仁王立ち」に変わっている... それでも、私は、猫は、子猫のときよりも、大人になってからの方が好き。

こうやって、比べてみるとなかなか面白い。これからも、年に一度、同じポーズをとらせて写真におさめておくことにしう。上の2枚の間に、もう一段階あったような気がするな... 少年期のタマジが。こんど探してみよう。(完全に親バカ状態...)

2月 27, 2008

この世とあの世のあわい

石牟礼道子さんの本の中には、「この世とあの世のあわい」という言葉がよく出てくる。

私の祖母が、どうやら最近、そういう世界に生きているらしい。92年間、苦労に苦労を重ねた人だ。1個の原子爆弾が彼女の人生を大きく変えた。一人で暮らしていて、今でもしっかりコープの注文書など、自分で書いて食料を注文し、炊事洗濯なども何とかひとりでこなしている。でも、ぼんやりしていると、聞こえるはずのない声が聞こえたり、居るはずのない人が居たりするらしい。ラジオの声が自分を馬鹿にしたり、テレビの人が急にテレビから出てきたり。

先日など、死んだはずの親戚が部屋にいて、「そこ、ちょっと使いたいから、あんた早くのいて」と言われ、急いで身支度をして、隣の部屋に退いたのに、よく見ると、その人はいなかった...などということが、頻繁に起こるようになっている。油断するとすぐに、こんな「あわい」に入り込んでしまうようだ。

母が週1回、日用品などの買い物をして届け、一緒に昼ごはんを食べて帰ってくる。その時と、コープの注文書を書くときだけが、現実に戻れるときなのだろう。母の来訪を本当に心待ちにしている。

電話はしょっちゅうかけてくる。いつも母が出る。この前は可笑しかった。夜に祖母が電話をかけてきて、色々と話したあと、母に、「あんたたち、もうそろそろ死ぬる頃?」と聞いてきたのだ。広島弁で「死ぬ」ことを「死ぬる」という。おそらく、「もうそろそろ寝る頃?」と聞きたかったのだろう、でも、何しろ「この世とあの世のあわい」に暮らす祖母のこと、彼女のなかでは、もはや死ぬることは、寝ることに限りなく近いのだろう。笑うべきかどうか、母は瞬間に判断できず、絶句していたところ、祖母の方から、「ああ、ああ、死ぬるんじゃなくて、寝るんよね」と笑ってくれたそうだ。

最近になって、これまでずっと封印していた原爆体験のことを、母に語り始めたそうだ。それが一部私たちにも流れてくる。広島弁で語られると、なんとも柔らかで、切ない。

2月 25, 2008

ふるさと訛り

いま熊本県の水俣あたりを旅している。 ...本の中で(笑)。

ふとしたことがきっかけで、石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読んだ。ずっと気になっていたくせに、なかなか手をつけなかった本だ。背中を押してくれたのは、志村ふくみさん。彼女の著書の中で紹介してあったのだ。この人が推薦するのなら間違いない、と思って読み始めた。本に対する嗅覚にはまったく自信がないので、いつもこんな風にして読み始める。

この本、会話はすべて、地元のことば(水俣弁?)で書かれている。それがものすごくいい。あまりに妥協のない表記なので、最初よく分からなかったのだが、読み進むうちに、ある程度慣れてきて、水俣弁が多少分かるようになってくる。今ではもう水俣弁がうつってしまい、独り言も水俣弁で言ってしまいそうなほど(笑)。

「自分のことば」でしか感じることのできない深部・暗部というものが、人間には確かにあるように思う。私の場合、それは播州弁だ。姫路あたりを中心とした播州のことば。その「ことば」でしゃべるとき、言葉にしっかりとした根が生える。土にしっかりとつながる。心の内奥を言い表すのに相応しいのは、こういう言葉なのだと思う。

たまに、小説やブログなどの書き物に、方言で書かれたものを見つけることがある。ものすごく興味深い。どうやって発音するんだろう、とついつい自分でも声に出して読んでみたくなる。生き生きとしていて、ちゃんと「味」がある。「ふるさとのことば」を持っている人は幸せだと思う。それをちゃんと使える人は素敵だと思う。「ふるさとのことば」というのは、基本的に話し言葉なので、表記するのが難しいけど、あえてそれをやってみるのも面白いかもしれないと思う。というか、方言がどんどんなくなっていっている今、それは必要なのかもしれない。

2月 12, 2008

春の兆し その2

タマジである。最近やたらとベランダに出たがるようになったし、出たらしばらく入ってこない。いくら寒くても、出っぱなし。いつも目がぎんぎんしてるし、外で何か音を聞きつけると、いてもたってもいられないという風。ああ、ここにも春が。

とにかくオスは縄張りを広げないといけない時期らしく、やたらと未踏の領域に進出したがる。応急措置で柵を作っていたものの、いわゆる「イタチごっこ」で、どうやっても抜け出てしまう。何度か隣の家のベランダまで行ってしまった。いちおう、内緒で飼っているので(もうとっくにバレてるだろうけど)、それでは困る。で、この度、必死で考案した特製の柵を作った。丈夫な棒と、鳥よけネットを駆使して、一日がかりで設置。今のところ功を奏している様子。

※写真は春の兆しとは関係ありません。変な格好で眠るタマジ。

2月 09, 2008

「つまる」

さて、今日のはなし、うまく書けるかどうか分からない。少なくとも、青虫には伝えようとして伝わらなかった。まあ、子供にはちょっと難しすぎるかもしれない。

こんど青虫が、小学校の「ミニ音楽会」で、ピアノを担当することになり、せっせと練習している。

で、昨日、夕飯のあと、

「ピアノちょっと聞いてみて。つまらんようになったで~」

と、青虫が言うので、

「え?つまらんようになったん?なんで?楽譜が変わったん?」

と、私。ポカンとする青虫。ん?何かすれ違ってる?

つまり、青虫は「淀みなく弾けるようになった」という意味で「つまらない」と言っているのに対し、私は「面白くなくなった」という意味で「つまらない」と受け取ったのだった。最近の子供は、テレビの影響か、ちゃんとした関西弁が話せないので、ことばのアクセントからは判断できないことが多いのだ。

誤解はすぐに解けたけれど、そのあと、お風呂でぼんやりその一件を反芻していて、あることに気がついた。それは、「つまらない(行き詰まらない)」ことは、もしかして、「つまらない(面白くない)」のではないだろうか。字だって、「詰まらない」と、同じ漢字を使うではないか。もしそうだとすると、「つまる(行き詰る)」ということと、「つまらなくない」=「面白い」こととは、深い関係があるのではないだろうか、ということだ。行き詰まりを経験しなければ、面白みは分からない。そういうことなのではないだろうか。なんと深い知恵なのだろう、と独りお風呂で感心していた。

お風呂から上がって、私のこの素晴らしい思いつきを青虫に説明したところ、「ぽかーん」とされてしまった。明らかに興味がない、といったふう。

いま私は多分、あることで、ひとつの「行き詰まり」に直面している。(私の人生自体、常に行き詰っているとも言えるが...) でも、昨日のこの思いつきにより、何かが「すとん」と腑に落ちた。そうだ、行き詰まりには意味がある。「つまる」ところは、面白いところなのだ。それに対して懸命に取り組めば。

2月 07, 2008

春の兆し

朝ときどき通る大阪裁判所の敷地には、豪華なボケの花の生垣がめぐらせてある。そろそろ咲く頃かと思って、昨日すこし遠回りして見に行ってみた。咲いてる、咲いてる!梅も!殺伐とした裁判所の建物に、豪勢な花の生垣。なんか不釣合いな感じ。いや、これでようやく釣り合うのかもしれない。

ボケの花。漢字では「木瓜」と書く。瓜とは関係なさそうなのに、なんでだろう。桜や梅や桃と同じ、バラ科の植物。小さい頃は、あんまり好きじゃなかった。なんとなく安っぽい感じがして。背は低いし、色はいかにも日本の朱色という感じで、色に深みがないように思えたし。それが、なぜか今は梅よりも、桜よりも好きになってしまった。幹の折れ具合、色合い、花の艶やかさ、なんともいえない風情を見出すようになった。本当に、趣味って変わるもんだなあと思う。今では、ボケの花のような女性になりたいとさえ思う。...不思議。

寒い朝だったけど、この咲き乱れる花々を見たら、とたんに暖かく感じて、思わずマフラーをはずした。

春だ!