私は本というものを読まずに育った。読んだのは、せいぜい蝶図鑑とか、バッハの伝記ぐらい。小説や物語のたぐいは、恥ずかしいほど読んでいない。そのせいか、どうも語彙に乏しい。何かを言おうとしても、ぴったりの表現が見つからずに苦労することが多い。だから、言語能力の高い人を無条件に尊敬する。思いや考えを的確な言葉で表現したり、説明したりできる人。そういえば、これまで私が好きになったことのある男性は、文章力に長けた人が多い。自分にないものを持っているからだろう。
そんな私も、ある人との出会いがきっかけで、ここ数年よく本を読むようになった。最近は音楽をきく時間よりも、本を読む時間の方が長いぐらい。今までの自分からは想像もできないことだ。
でも、やはり本物の読書家には全然かなわない。ほんものの読書家は、とにかく読む量がちがう。自分の嗅覚を頼りに、どんどん色んな本を読んでいくようだ。秀作も駄作も、ひととおり目を通す。本に対する自分の感覚に自信があるからだろう。それに対して、にわかリーダーの私は、自分の感覚に全く自信がないので、人から評判をきいて、最初から面白いと分かっている本だけを読む。そういう導きがないと読めないのだ。
というわけで、私は書評を読むのが好きだ。新聞の書評欄には必ず目を通すし、自分の好きな人が何か本を紹介していたら、すぐにそれを本屋で探してみる。そして、この度、これ以上のものは望めないともいうべき本が出た。
米原万里 『打ちのめされるようなすごい本』(文芸春秋)だ。最近すっかり彼女の世界にはまってしまっている。これは彼女が生前いろんな所で書いた書評を、彼女の死後まとめた本。さすがにロシア・東欧関係の本についての書評は専門的すぎて読み飛ばしてしまうが、他にも面白そうな本がいっぱい紹介してあって、読みたくなる。何より、彼女の批評文そのものが素晴らしい。こんなに頭が良くて、言葉を自由に操れる女の人はちょっといないと思う。まるで男の人。
彼女の死後出版された本は、もう一冊ある。『他諺の空似』(光文社)という本。これも面白かった。「ことわざ人類学」などと銘打っているものの、中身は徹頭徹尾、ブッシュ批判、小泉批判、近代文明批判の書だ。それに、かなりエロい小咄が毎回冒頭に登場する。小咄好き、下ネタ好きの彼女のこと、実はそれが一番書きたかったんじゃないかと思うほど、そのエロ小咄が冴えている。中にはかなりどぎついのもあって、ちょっと辟易する人もあるかもしれないが。
ある精神科の先生(青虫の父親、つまり私の他ブログ、Thinking Women の作者が生前お世話になっていたT先生)が、不定期に書き送って下さる小冊子をいつも楽しみにしている。中心的なテーマは「反戦」で、それに先生の近況や、先生が取り組んでいる禅のこと、最近読んだ本などの紹介が添えられている。毎回充実した内容で、忙しい業務のかたわら、よくこれだけのものが書けるなあと、いつも感心する。その新年号に2冊の本が紹介してあった。
『アメリカに「NO」と言える国』(竹下節子著)と、『グラウンド・ゼロがくれた希望』(堤未果著)だ。いずれも、反戦という視点から、はっとさせられる優れた本として紹介されており、T先生いわく、「こうした視点が、現在の日本からではなく、日本と外国との間に身を置いた人から出てきているところに、日本国内にいただけでは、思考を封じ込められるという事実を突きつけられる思いがする」と。そういえば、米原万里も、日本とロシアというふたつの世界に身を置いた人だった。
T先生も、いわゆる読書家で、信じられないぐらい沢山の本を読む。書評好きの私としては、彼のウェブサイト中にある「読書室」が気に入っている。(T先生、勝手に紹介してすみません!)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/bankyu/contents.htm(読書室は「隠し部屋」の中にあります)
ちなみに、私をすっかり本好きにした「ある人」というのは、特に読書家というわけではない。むしろあまり本を読まない人というべきかもしれない。私と同じで音楽人間だ。だから共鳴したのだろうか。その辺がまた人生の面白いところだと思う。