写真はうちのマンションの入り口に咲いている、例の水仙。(詳しくは1月23日の記事「発情期?」のコメント参照) 真ん中へんの水仙だけ、異様に育っているのが分かる。これが、春・夏・秋と、近所の野良猫(でもアメショー)のおトイレになっている箇所。ものすごい「栄養」だ。 それに比べて、タマジの「栄養」は毎日むなしく我が家のトイレに流されるだけ... ちょっともったいないかな?
1月 27, 2007
1月 25, 2007
ちぢみほうれん草
最近はまっている野菜。「ちぢみほうれん草」という名前で売り出されている。産地は群馬県。
とにかく甘い!その甘さにまず驚く。形は普通のほうれん草より肉厚で、名前のとおり縮んでいる。たんぽぽの葉みたいに、地面に這いつくばるようにして生えているらしく、売られている姿は何となく平べったい。冬にだけ採れるそうだ。一所懸命地面に張り付いて、冬の寒さに耐えようとしているのだろう。冬のほうれん草は冬越しの養分を貯めようとするためか、普通の種類のも甘い。でも、この種類は、普通のよりも用心深いのだろうか、それとも怖がりなのだろうか、異常なほど甘みを貯めている。精製すると砂糖がとれるんじゃないかと思うほどだ。
肉厚なので、加熱してもあまり量が減らないのも嬉しい。
地面を這う形なので、かなり土がついているのが難点といえば難点だが、大量の水の中に手でちぎって放り込み、思いっきりかき回し、土を下に沈めておいて、上に浮いた葉っぱだけをザルにつまみあげる、というのを2~3回繰り返すと、土はとれる。
油いため、おひたしや胡麻和え、グラタン、シチューと、何に使っても美味しい。ほうれん草好きの人には、きっとたまらないと思う。お店で見かけたら、一度お試しあれ!
(写真:タマジがひやかしで食べているところ。彼が本当に食べるのは水菜。)
とにかく甘い!その甘さにまず驚く。形は普通のほうれん草より肉厚で、名前のとおり縮んでいる。たんぽぽの葉みたいに、地面に這いつくばるようにして生えているらしく、売られている姿は何となく平べったい。冬にだけ採れるそうだ。一所懸命地面に張り付いて、冬の寒さに耐えようとしているのだろう。冬のほうれん草は冬越しの養分を貯めようとするためか、普通の種類のも甘い。でも、この種類は、普通のよりも用心深いのだろうか、それとも怖がりなのだろうか、異常なほど甘みを貯めている。精製すると砂糖がとれるんじゃないかと思うほどだ。
肉厚なので、加熱してもあまり量が減らないのも嬉しい。
地面を這う形なので、かなり土がついているのが難点といえば難点だが、大量の水の中に手でちぎって放り込み、思いっきりかき回し、土を下に沈めておいて、上に浮いた葉っぱだけをザルにつまみあげる、というのを2~3回繰り返すと、土はとれる。
油いため、おひたしや胡麻和え、グラタン、シチューと、何に使っても美味しい。ほうれん草好きの人には、きっとたまらないと思う。お店で見かけたら、一度お試しあれ!
(写真:タマジがひやかしで食べているところ。彼が本当に食べるのは水菜。)
1月 23, 2007
発情期?
外に出たい。とにかく外に。どんなに寒くても、危険でも、外の世界へ飛び出したい!
もう外へ出ることで頭がいっぱい。外へ出たいと叫ぶ鳴き声が日増しに大きくなってきている。最初、「うぉん?」(出たらあかん?)と伺いを立てる感じだったのが、次第に「や~ん」(出して~)になり、最近では「にゃわ~ん!わぁ~わぁ~ん!」(出して~な、もうっ!なんで出たらあかんねん!)、みたいな感じである。
なんでも、新春のお慶びの時期は猫の発情期の第1回目。(年に何回か来るらしい。)獣医さんによると、オスが発情するわけではなく、メスが発情し、それを嗅ぎつけたり聞きつけたりして、オスが反応するそうだ。(人間も同じかもしれない、と思うときがある。)
実は、タマジ、この度やむをえず手術を受けさせた。立派なチェリーが、今はもう... 都会で、不自然な暮らし方を強いた上に、身体の改造までするなんて、なんとひどいことだと思うが、マーキング、徘徊、喧嘩などを防ごうとすると、これしか手がないのだ。ああ!でも、それらこそ、猫のオスと生まれて、立派にこなしていくべき課題の数々なのではないだろうか。
でも、徘徊への衝動は一見したところ日増しに大きくなるばかり。
ちょっと嬉しい。
もう外へ出ることで頭がいっぱい。外へ出たいと叫ぶ鳴き声が日増しに大きくなってきている。最初、「うぉん?」(出たらあかん?)と伺いを立てる感じだったのが、次第に「や~ん」(出して~)になり、最近では「にゃわ~ん!わぁ~わぁ~ん!」(出して~な、もうっ!なんで出たらあかんねん!)、みたいな感じである。
なんでも、新春のお慶びの時期は猫の発情期の第1回目。(年に何回か来るらしい。)獣医さんによると、オスが発情するわけではなく、メスが発情し、それを嗅ぎつけたり聞きつけたりして、オスが反応するそうだ。(人間も同じかもしれない、と思うときがある。)
実は、タマジ、この度やむをえず手術を受けさせた。立派なチェリーが、今はもう... 都会で、不自然な暮らし方を強いた上に、身体の改造までするなんて、なんとひどいことだと思うが、マーキング、徘徊、喧嘩などを防ごうとすると、これしか手がないのだ。ああ!でも、それらこそ、猫のオスと生まれて、立派にこなしていくべき課題の数々なのではないだろうか。
でも、徘徊への衝動は一見したところ日増しに大きくなるばかり。
ちょっと嬉しい。
1月 16, 2007
復讐あるいは警告
またニワトリが大量に処分された。1万2千羽も。ゴミかなんかのように。ナチスの大量虐殺と何が違うのか分からない。それより少し前には、健康に育ったキャベツや白菜、ピーマンなどが、これは価格が下がるという理由で大量に廃棄された。
一方で、相次ぐ自殺や殺人におののき、教育の場で「いのちの大切さ」を教えよう、などと言っている。あほかと思う。 家畜や害獣、もっと言うなら樹木や草花ならいくら殺してもよく、人間はひとりでも殺してはいけないという理屈は、子どもにはきっと分からない。 いや、大人だってそんな理不尽なことは分かりたくない。
タイトルの「復讐あるいは警告」は、去年の5月に亡くなったロシア語同時通訳者、米原万里の『真夜中の太陽』(2001年 中央公論新社)の中の1節に付された題である。この文章の中で、米原は言う。
「大体数の人々が、自分自身か、自分の家族か、あるいは身近な人々が生き物を殺し食物としていくプロセスを日常的に見知っているあいだは、無駄な殺生を戒める倫理観や美意識が、どの民族の宗教や風習にも息づいていた。
しかし、分業が進み、防腐・冷凍技術が発達し、輸送運搬手段が発展を遂げるなかで、生き物が食べ物になっていくプロセスは、殺生も含めて圧倒的多数の人々からは隔離された形で進行するようになった。」
「数年前、騒がれた狂牛病(BSE)や、鶏の奇病、いずれも自然な環境に生息する動物ではなく、人間による大量生産と大量消費のために、過度に密集した生息環境に置かれ成長を促進するホルモンや薬物を投下された家畜が発症している。」
「今の、食料をまるで工業製品のように生産し、消費物資あつかいするあり方を続ける限り、食中毒問題は、今後も限りなくわれわれを襲ってくるだろう。これは、命を削られる生き物たちの復讐でもあり、人間に対する警告でもある。」
この文章は、O-157による食中毒の発生、雪印乳業のずさんな管理によるブドウ球菌の混入などの事件を受けて書かれた記事であるが、状況は今も全然変わっていない。O-157が鳥インフルエンザに、雪印が不二家に変わっただけのことだ。
人間以外の生き物の命をモノのように扱えば扱うほど、人間自身の命もモノのようになっていくという構造があるように思う。 命の大切さを教えたいなら、まず人間のせいで人間以外の生き物に害が及んだり、迷惑がかかったりすることをなるべく減らし、動植物を、工業製品としてでなく、生き物として敬う態度を、他ならぬ人間の大人たちが言葉の上だけでなく、ちゃんと行動で示すべきだろうと思う。
一方で、相次ぐ自殺や殺人におののき、教育の場で「いのちの大切さ」を教えよう、などと言っている。あほかと思う。 家畜や害獣、もっと言うなら樹木や草花ならいくら殺してもよく、人間はひとりでも殺してはいけないという理屈は、子どもにはきっと分からない。 いや、大人だってそんな理不尽なことは分かりたくない。
タイトルの「復讐あるいは警告」は、去年の5月に亡くなったロシア語同時通訳者、米原万里の『真夜中の太陽』(2001年 中央公論新社)の中の1節に付された題である。この文章の中で、米原は言う。
「大体数の人々が、自分自身か、自分の家族か、あるいは身近な人々が生き物を殺し食物としていくプロセスを日常的に見知っているあいだは、無駄な殺生を戒める倫理観や美意識が、どの民族の宗教や風習にも息づいていた。
しかし、分業が進み、防腐・冷凍技術が発達し、輸送運搬手段が発展を遂げるなかで、生き物が食べ物になっていくプロセスは、殺生も含めて圧倒的多数の人々からは隔離された形で進行するようになった。」
「数年前、騒がれた狂牛病(BSE)や、鶏の奇病、いずれも自然な環境に生息する動物ではなく、人間による大量生産と大量消費のために、過度に密集した生息環境に置かれ成長を促進するホルモンや薬物を投下された家畜が発症している。」
「今の、食料をまるで工業製品のように生産し、消費物資あつかいするあり方を続ける限り、食中毒問題は、今後も限りなくわれわれを襲ってくるだろう。これは、命を削られる生き物たちの復讐でもあり、人間に対する警告でもある。」
この文章は、O-157による食中毒の発生、雪印乳業のずさんな管理によるブドウ球菌の混入などの事件を受けて書かれた記事であるが、状況は今も全然変わっていない。O-157が鳥インフルエンザに、雪印が不二家に変わっただけのことだ。
人間以外の生き物の命をモノのように扱えば扱うほど、人間自身の命もモノのようになっていくという構造があるように思う。 命の大切さを教えたいなら、まず人間のせいで人間以外の生き物に害が及んだり、迷惑がかかったりすることをなるべく減らし、動植物を、工業製品としてでなく、生き物として敬う態度を、他ならぬ人間の大人たちが言葉の上だけでなく、ちゃんと行動で示すべきだろうと思う。
1月 15, 2007
臘梅(ロウバイ)
近所に咲いているロウバイ。花が蝋細工のように見えるので蝋梅というそうだ。強い芳香をあたり一面にまき散らしている。
1月は、いつもこの花を楽しみにしている。花の乏しいこの時期に、ひとり豪華に咲いている。競争相手がいないから、もう少し手を抜いても大丈夫だと思うのに、見た目も香りも極上品。身も心もボロボロという時でも、その香りを肺いっぱいに吸い込むと、身体全体が清められ、新しい活力がわくような気分になるから不思議。
水仙も咲き始めた。同じく、清らかな香りのする花だが、ロウバイにはかなわない。
2月に楽しみにする花は、何といっても沈丁花。これにはどんな花もかなわない。ロウバイの盛りが過ぎるのを惜しみつつ、沈丁花を楽しみに待つときの気持ちは、何ともいえず贅沢だ。
1月は、いつもこの花を楽しみにしている。花の乏しいこの時期に、ひとり豪華に咲いている。競争相手がいないから、もう少し手を抜いても大丈夫だと思うのに、見た目も香りも極上品。身も心もボロボロという時でも、その香りを肺いっぱいに吸い込むと、身体全体が清められ、新しい活力がわくような気分になるから不思議。
水仙も咲き始めた。同じく、清らかな香りのする花だが、ロウバイにはかなわない。
2月に楽しみにする花は、何といっても沈丁花。これにはどんな花もかなわない。ロウバイの盛りが過ぎるのを惜しみつつ、沈丁花を楽しみに待つときの気持ちは、何ともいえず贅沢だ。
1月 06, 2007
1月 05, 2007
冬眠という神秘
タマジのことばかり書いているが、実はうちには他にも人間以外の生き物が住んでいる。オオクワガタ2匹(つがい)と、ミドリガメ1匹である。オオクワガタは、職場の所長にもらった。ミドリガメも、友達からもらい受けた。いずれも、タマジと同じ、大阪生まれの神戸育ち。
オオクワガタが冬眠するのは分かる。なんとなく、土にもぐって寝ている姿が想像しやすい。でも、問題は亀ちゃん(未だ名無し)! 何しろ、爬虫類がちょっぴり苦手な私は、亀を飼うのは初めてで、その生態がよく分からない。気温が下がり始めた頃から、めっきりエサを食べなくなった。その後、全くエサを食べなくなってから、もう1ヶ月近く経つ。排泄物もない。まさか死んでいるのでは??と思い、おそるおそる中(水を少し張った水槽の中に置いた「クリープ」の瓶の中で寝ている)を覗いて、つっついてみると、生きている。やっぱり冬眠しているんだろうか。この亀ちゃん、まだ甲羅の大きさ5センチぐらいの子亀。もしかすると、初めての冬なのかもしれない。
虫ならまだしも、ある程度の大きさの生き物が、何も食べずに何ヶ月も眠り続けるというのは、こうやって目の当たりにしてみると何とも不安なものだ。時々、死んでないか確かめたくなる。いや、ほんとに途中で死んでしまうかもしれない。でも、亀にしたら、これが普通なのかもしれない。冬眠中だから、放っておけばいいのか。あるいは、何かしてやらないといけないのか、いま途方に暮れている。上野動物園で熊の冬眠が見られるそうだ。たずさわるスタッフは、きっとドキドキものだろう。
思えば人間も同じかもしれない。人間だって、何もせず、摂取するもの、排出するものを極力減らしてひたすら眠るという状態になることがある。他の人から見て、時にそれは「うつ状態」と呼ばれたりすることもあるだろう。名前は何であれ、要は「冬眠」に近いものなのだろうと思う。きっと、何か厳しく辛いものを命がけで「やり過ごす」姿なのだ。周りの人はうろたえる。どう接して良いのか分からなくなる。本人もそうだろう。人間にも冬眠する個体があると考えた方がいいのではないか、という気がする。
オオクワガタが冬眠するのは分かる。なんとなく、土にもぐって寝ている姿が想像しやすい。でも、問題は亀ちゃん(未だ名無し)! 何しろ、爬虫類がちょっぴり苦手な私は、亀を飼うのは初めてで、その生態がよく分からない。気温が下がり始めた頃から、めっきりエサを食べなくなった。その後、全くエサを食べなくなってから、もう1ヶ月近く経つ。排泄物もない。まさか死んでいるのでは??と思い、おそるおそる中(水を少し張った水槽の中に置いた「クリープ」の瓶の中で寝ている)を覗いて、つっついてみると、生きている。やっぱり冬眠しているんだろうか。この亀ちゃん、まだ甲羅の大きさ5センチぐらいの子亀。もしかすると、初めての冬なのかもしれない。
虫ならまだしも、ある程度の大きさの生き物が、何も食べずに何ヶ月も眠り続けるというのは、こうやって目の当たりにしてみると何とも不安なものだ。時々、死んでないか確かめたくなる。いや、ほんとに途中で死んでしまうかもしれない。でも、亀にしたら、これが普通なのかもしれない。冬眠中だから、放っておけばいいのか。あるいは、何かしてやらないといけないのか、いま途方に暮れている。上野動物園で熊の冬眠が見られるそうだ。たずさわるスタッフは、きっとドキドキものだろう。
思えば人間も同じかもしれない。人間だって、何もせず、摂取するもの、排出するものを極力減らしてひたすら眠るという状態になることがある。他の人から見て、時にそれは「うつ状態」と呼ばれたりすることもあるだろう。名前は何であれ、要は「冬眠」に近いものなのだろうと思う。きっと、何か厳しく辛いものを命がけで「やり過ごす」姿なのだ。周りの人はうろたえる。どう接して良いのか分からなくなる。本人もそうだろう。人間にも冬眠する個体があると考えた方がいいのではないか、という気がする。
1月 02, 2007
エメラルド
迎春
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