3月 31, 2012

春の匂い&味

仕事から帰ってきてバスを降りると、ガス漏れのような匂いがあたりに充満している。毎年この時期になると香ってくる特有のこの匂い。この匂いの正体はヒサカキ(姫榊)という常緑樹の花。

それまでは、これがスギ花粉の匂いだと勘違いしていた。なぜって、いつも花粉症の季節とともに匂ってくるから。でも、あるときネットで、「都市ガスの匂いの花」で検索してみると、一番上にこのヒサカキが出てきた。なるほど、これなら近所にたくさん生えている。そして近づいて嗅いでみると、まさにこれ!これこれ、この匂いっ!!と、ちょっと感激だった。

沈丁花の爽やかな香りも好きだけど、それを打ち消すように存在をアピールするこのヒサカキの匂いも、同じ「春の便り」と思えばだんだん好きになってきた。


ヒサカキ(姫榊)
さて畑。私の隣の場所を使っている人が、どうも最近まったく来ていないらしく、雑草がぼうぼうに茂ってきた。主にホトケノザ。それを手でむしゃむしゃとちぎって、私の畝と畝の間に敷いてみた。

雨が降ると畝と畝の間に水がたまり、ぬかるんで歩きにくくなる。草を敷いておくと少しは歩きやすくなるかなと思うのと、あとはこれが上手い具合に枯れてくれたらジャガイモのマルチング(被覆)材として使えるんじゃないかと期待して。どうだろう、畑が見苦しくなる!といって、持ち主のじーちゃんに怒られるかな??

ひとつの試みとして、自分としてはなかなかいいアイデアじゃないかと思っている。それと、嬉しい発見がひとつ。むしゃむしゃと草をむしっているときに気がついたのだが、この畑にはテントウ虫がたくさん居る。そういえば、ちょっと前、ソラマメの芽にアブラムシがびっしりついてもう駄目かと思っていたのが、見事に復活していた。そしてアブラムシも見当たらない。テントウムシのおかげかも。本当に頼もしい助っ人だ。

畝と畝の間に雑草を敷いてみた

さて次は、「良い子は真似してはいけません」という話。

近所の空き地に何やらアブラナ科の草が自生している。毎年かわいい菜の花が咲いているので、アブラナ科だと知っている。最近、「菜の花のからしポン酢和え」にはまっている私は、とうとうこの野性の菜の花に手を出した。誰もいないのをいいことに、道端に生えたこの草の先っちょをプチプチと大量にちぎって持ち帰り、茹でて、からしポン酢で和えて食してみた。ん~上手いっ!!ちょっとアクが強いけど、パンチがあって、柔らかくて、なかなか美味しかった。春の味がした。

道端の草を食べるなんて、最初ちょっと勇気が要った。数時間後に急に悶え死んだらどうしようと思った。けど、おかげさまで今も無事生きている。でも、良い子は真似してはいけません(笑)。

おそらく芥子(からし)菜と思われる

でもでも、これが本当に食べれるとなると、本当に食べるものに困ったとき、これは第一候補に挙げられると思う。土筆(つくし)や蕨(わらび)も美味しいし、イタドリ(この辺ではカッポンと呼ぶ)も美味しい。母によると、アザミの茎なども美味しいらしい。ただ、それらはあまり栄養になりそうにない。その点、このからし菜はおすすめです!

マンボウの昆虫記

たぶん何度も読み返すだろうと思う本に久々に出会った。

 『どくとるマンボウ昆虫記』(北杜夫著 新潮文庫)

 こんな名著に、なんで今まで出会わなかったのか不思議。

 最初、何やらフニャフニャとはぐらかしてばっかりで、あまり本格的に昆虫の話が出てこず、虫をネタにしたナンセンスものかと思いきや、それは単なる「照れ」だと分かる。読み進むにつれ、この人が昆虫や植物に関してとてつもない知識と経験の持ち主だということが次第に明らかになってくる。 

それはまるで、色んな人の集まるパーティーで虫好き同士が出会い、最初はそれほど虫に関心のない人も混じって軽い会話をしていて、次第に一人去り二人去りしたのち、夜も更けて、お酒もすすんで、最後にごく少数の本当に虫が好きな人だけが残って、ようやく本気モードで虫談義が始まるような、そういう時間の深まりを思わせるような構成になっている。 

その本気モードの虫談義の面白いこと面白いこと! 

斉藤茂吉の次男として生まれ、ひどい躁鬱病を患いつつ、精神科の医師兼患者として、作家マンボウとして大活躍した北杜夫という人。その多面的な人生は各方面において凄まじく、近親者たちにとっては本当に大変な人だったと思うけど、その成果物を享受するだけの私たちには、この上ないよろこびをもたらしてくれる。

3月 17, 2012

土のはなし

先週末、岡本にあるミドリカフェに行ってきた。このカフェ、入った瞬間すぐに心地よい空気に包まれる。街なかにあるにもかかわらず、店内は名前のとおり木と緑にあふれていて、お洒落で何ともいえず気持ちいい。初めて行ったとき、水のかわりに白湯を出してくれたのも嬉しい驚きだった。

長年神戸に住んでいるけど、家から大阪までの往復ばかりで、岡本はいつも素通り。このミドリカフェを知ってから、初めて岡本という街の魅力を知った。フェアトレードで有名なシサム工房なんかもある。そのほか、生き物や環境に負担をかけない暮らしを追求するお店が多く、なんというか、すごく文化的なレベルの高い街だなあと思った。少し京都に似ている気がするのは、学生が多いからだろうか。若い(とは限らないのかな?)店主さん達が集まって、「岡本ハッピーバトン」というイベントをやっていたり、すごく活気がある。

そのイベントのひとつとしてミドリカフェで催された「土のはなし」を聞いてきた。畑をやり始めてから、土への関心が高まっていたところだったので、すごくタイムリーだった。講師は西山雄太さん。姫路を拠点に土の再生に取り組んでいる若い人だ。

植物のよく育つ肥えた土というのは、堆積した植物やその他の有機物、微生物などによって何百年、何千年もかけて作られてきたもの。そういう肥沃な土が、世界中でどんどん減っていっているらしい。公園の土も、山の土も、そして畑の土もしかり。命を育む、本当に力のある土は長年かけて培われるにもかかわらず、今の人間の暮らし方では、その土を一瞬にして使い果たしてしまうかもしれない。そうなると、木も作物も育たず、自然災害がますますひどくなり、食料事情も悪化する。

現行の社会のしくみでは、本来、新しい土の原料となるはずの枝や枯葉や雑草などは、「産業廃棄物」として燃やされてしまう。そこで西山さんは、土の原料になる植物等のゴミは「みどりの廃棄物」として別枠を設け、適切に処理して土に返そうと提案している。とても重要な提案だと思う。考えてみれば当然のことだし、急務でもあると思う。

西山さんの話を聞いて思い当たることがあった。それはいま私が借りている畑。畑のふちに生えた笹があまりにしつこく芽を出すので、一度気合を入れて根絶やしにしてやろうと、畑の土を深く掘ってみた時、すぐに赤い土に行き当たった。赤い土は痩せた土。肥えた黒い土はほんの数十センチで、そのすぐ下に痩せた赤土が出てきたのだ。この畑の持ち主は雑草が大嫌い。せっせと抜いては捨てている。その「きれい好き」が祟って土がどんどん減っていったのかもしれない。

そして、家のすぐ裏の山。裾のほうに生えた木の根っこがむき出しになっている。これも以前あった土がどんどんなくなっていった結果らしい。ここも、近所の高齢者がせっせと掃除し、草抜きをしている場所。集めた草や落ち葉は、もちろん「生ゴミ」として捨てられる。

家の裏の小山。土が減って木の根がむき出しに。

ささやかながら自分でも何かできることをやってみようと思う。

せめて、今使わせてもらっている畑の土を決して減らすまいということで、ベランダで作りかけていた堆肥づくりを再開することにした。生ゴミの利用ということで以前から試みていたものだ。生ゴミ(できれば素性の知れた無農薬の農産物のゴミ)と、米ぬか、腐葉土、プランターに生えた雑草、ベランダに舞い込む落ち葉などをひとつにまとめて熟成させる。




あと、作物と一緒にレンゲを植えることで他の雑草を抑制するとともに、レンゲの緑肥効果(土の中の窒素成分を増やしてくれる)を狙う(ちょっとレンゲの植え方が足りなかったけど...)。温かくなったらタマネギの間にレンゲの花が咲く予定。

タマネギと一緒にレンゲを植えた

畑を始めた頃、前に使っていた人がほったらかしにしていた畝が雑草でびっしり覆われていた。その後、畑の持ち主の命に従いせっせと雑草を抜いて、草一本生えていない「きれいな」畝にした。そしてその後トラクターで耕してもらった。でも、いま思えば雑草に覆われていた時の土のほうが、土として元気だったように思う。ミミズもいっぱい居たし、だんご虫も、他の虫もいっぱいいた。土の中に大勢の生き物が暮らしていた。なんとか地主さんの目を盗んで、あの頃の土に戻せないものか。

コリアンダーとタイムの鉢に自然に生えてきたナズナ等
土さえあれば、植物は自然に生えてくる

光合成によって無機物から有機物を作るという創造行為は植物にしかできない。その植物が作ってくれた有機物を食べ、植物の作ってくれる酸素を吸って生きるしかない我々動物は、昔も今も、そしてこれからもずっと消費者の立場でしかない。いかに植物に元気でいてもらうかを考えるのは、私たちの生存に直結する最重要の課題だと思う。そのためには何よりも土!元気な土づくりは全ての基本だとつくづく思った。

3月 04, 2012

裸木の美しさ

木の枝が空に描く線にうっとり見とれる。これは冬の楽しみのひとつ。

サルスベリ

冬には、その枝ぶりの美しさに惚れぼれしてしまうような木に出会う。

そういう目で見始めてから、改めてその美しさに気づいた木がケヤキ(欅)。まだ写真は撮れてないが(いつも電線や電柱が邪魔になっていい写真が撮れない...)、よく街路樹になっている背の高い木だ。天にむかって素直に伸びた枝。扇状のすっきりした樹形。うっとりしてしまう。いつか、ケヤキの裸木のデッサンをしてみたいな。

アカマツ

街を歩くとき、いつも木を観察しながら歩くので、なんか変な人になっている(笑)でも、これは私にとってすごく大切な時間であり、かつ贅沢な時間。

越冬


冬の畑で気づいたことは、土があたたかいこと。作業の途中、疲れて畑の土にひざをついてみると、ひざがほんのりぬくもる。葉っぱのまま冬を越すものたちが地面にへばりつくようにしているのは、地面のぬくもりで暖をとっているのだということが実感としてわかった。


乗馬クラブで冬の寒い中、馬の手入れをするときに子供たちが時々馬にもたれて暖をとる姿を思い出した。真冬でも馬の体はあたたかい。畑の土も同じ。やっぱり土は生き物なんだとつくづく思う。