『No.6』(サナギに勧められて読んだ児童文学)以来ずっと、あさのあつこばかり読んでいる。サナギを追い抜かして、すっかり私の方がはまってしまった。小説ぎらいの私が、こんなに続くなんてめずらしい。
どうしてこんなに面白く感じるんだろうと、ちょっと考えてみた。真っ先に目に付く特徴は「色っぽい」こと。このあさのあつこという人、かなりエロいと思う。野球に関わる男の子たちの成長を描いた『バッテリー』でさえ、ピッチャーとキャッチャーとの関係が、まるで男女のかけひきみたいに色っぽい。子供向けの小説とはいえ、ぞくっとするほど性的なものを感じさせるのだ。それが魅力のひとつ。(笑)
もうひとつは、自然の移りかわりの描写が素晴らしいこと。作者自身、岡山県の田舎にずっと住んでいて、そこにこだわっているようにも思える。山里に住んで、その風景を日々愛でているからこそ書ける文章だと思う。それもこの人の小説の大きな魅力のひとつ。
でも、何よりも私をひきつけるのは、彼女の小説がポリフォニック(多声的)だからだと思う。
「ポリフォニー」というのは、複数の異なる旋律が同時に進行する音楽のこと。今日最も普通に耳にする音楽の構成方法は「ホモフォニー」といって、いわゆる主旋律と伴奏で成り立つのに対して、この「ポリフォニー」というのは、いわば複数の旋律で成り立つ。そのため、どれが主旋律(メロディ)なのかは分かりにくい。そのせいかどうか分からないが、徐々にポリフォニックな音楽は廃れていったのである。
でも、私はバッハに代表される、このポリフォニー(多声部の音楽)をこそ、こよなく愛する。ひとつの音楽の中で各旋律が独立性を保ちつつ、ときには対立し、ときには調和するといった旋律どうしの関係性そのものが面白いのだ。あさのあつこの話の中でも、いちばん面白いのはこの「関係性」だ。
登場人物のうち、誰が主役で誰が脇役ということはなく、いわば全員が主役として、各々の者の視点から、ひとつの出来事が描かれるのだ。ひとつの事実や人物に対しても、立場や性格が違えば、それに対する態度や見方が全然ちがってくる。それらを濃密に絡み合わせながら、同時進行で描いていく。いくつもの視点を内包する小説なのだ。その視点の絡まり方が徹底的に描かれる。まるでバッハの音楽。
さなぎの父親がこよなく愛したアガサ・クリスティのミステリーも、このようなスタイルだったのではないかと思う。私は読んだことはないけど、彼がそれについて熱く語っていたのを懐かしく思い出す。ほかにもきっと、こういうポリフォニックな小説はたくさんあるのだろうと思う。ドフトエフスキーの作品が「ポリフォニー小説」と呼ばれるというのを、どこかで目にした記憶もある。
先日、新聞のコラムのなかに、興味深い一文があった。歴史を描く視点としても、このポリフォニックな方法があるとのこと。つまり、ひとつの地域の歴史を描くときに、都を中心として描くやり方と、そうではなく、多様な地域を、そのひとつひとつを主役として描くやり方だ。そして、その後者のやり方、つまり各々の地域を主体として描いていくというやり方でものを書いた代表人物として、司馬遼太郎が挙げられていた。
どんな分野においても、ポリフォニックなものの見方というのは面白いと思う。この世界の成り立ちそのものが、そもそもポリフォニックなのではないだろうか。それを無理やりホモフォニー(主旋律と伴奏で成り立つ音楽)に押し込めようとすると、必ずひずみが出るはずだ。
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空はすっかり秋もよう |