1月 31, 2020

色即是空

2018年の年末。京都にて

2020年1月23日の朝9時前、タマジが突然この世を去った。私と娘の目の前で。急に倒れて苦しみ始めてから、ほんの一瞬であの世へと旅立ってしまった。何が起きたのか分からなかった。これまで一度も病気したことがなかった。

6歳の誕生日に神戸の家のベランダで

直前まで普通に朝ごはんを食べ、いつもの台の上で良い顔をして落ち着いていたのに。その前日だって、いつものようにトイレに行ったあと家の中を全速力で駆け抜けたりしていたのに。まったく心の準備ができていなかった。愛する存在との突然の別れ。受け入れることを心も体も拒否する。不眠、食欲不振、何をしていても涙があふれて、何ひとつ手につかない。

去年の1月、京都の家のいつものソファーで
妹にカッパちゃんを乗せられて微笑むタマジ

思えば兆候はあったのだ。尿の量が明らかに増えていた。それに伴って水を飲む量も増え、何かおかしいとは思っていたのに、タマジがいつもどおり機嫌がいいので放置していたのだ。私自身の転職騒動もあって、気持ちに余裕がなかったのも確か。ありえないミスを連日のようにやらかしていた。そんな中、タマジの体調にまで気を配れていなかったかもしれない。

8歳ごろ。神戸にて。日向ぼっこ中

しんどかったのだろうか。どこか痛かったのだろうか。もう今となっては何を悔いても遅い。大切なタマジはもう逝ってしまって、ここには居ないのだから。一番大切なものを見失うのが「心を失う(忙しい)」ということなのだから。

ベランダでカマキリに威嚇される。神戸にて。

娘が小学生の時、どうしても犬か猫と一緒に暮らしたいと、ずっとずっと願い続けた末に奇跡のように出会ったタマジ。私が子育てのパートナーがいないことに堪らない寂しさを覚えていた時に颯爽と現れたタマジ。この13年半、1年365日、毎日欠かさず私達の出勤・通学を見送り、帰宅を迎えてくれたタマジ。娘の膝の上で、この世の幸せを一身に集めたような顔でゴロゴロ言っていたタマジ。写真を整理していると、私達がこの猫にどれほどの恩恵を受けてきたか思い知らされる。

娘の膝の上でゴロゴロ

「色即是空」この世とあの世、実と虚、生と死が表裏一体のものであって、それが突如反転する可能性を常に孕んでいるということを身を以て教えてくれたタマジに感謝して、いつ死が訪れてもよいように生きていくことが、唯一タマジの死に報いることになる思う。タマジくん、穏やかで和やかな日々を本当に本当にありがとう。

3歳ごろ。神戸にて

8月 22, 2019

千鳥の卵

この春、初めて近所の川のチドリ類の調査に参加させてもらった。その体験が心に深く刻まれたので、ここに書き留めておきたいと思う。


イカルチドリやコチドリは川で見かけることはあっても、そこで繁殖していることは知らなかった。
繁殖行動やヒナを見たこともなかった。ただ興味はあった。もし可能なら、かわいいヒナをひと目見てみたい。
そんな下心もあって参加したのだ。


事前研修で繁殖行動のことや、卵のことなどを勉強し、いざ現地で調査を開始すると、今まで私の目は節穴だったのか
と思うほど、コチドリもイカルチドリも、近所の中洲・寄州でちゃんと繁殖している!

抱卵中のコチドリ

ある時、調査が始まって間もなく、イカルチドリの卵を発見した。中洲の砂礫の上に、あまりにも無防備な卵が4つ、
四つ葉のクローバーの形に鎮座していたのだ。その初めて見る卵の美しかったこと!胡麻ふ模様のついた薄水色の卵。
こんなにか弱く貴重な存在が、人も立ち入る中洲に存在し、丸見えになっていることにびっくりするとともに、
その存在への強烈な愛おしさを覚えた。

イカルチドリの卵

その後、矢継ぎ早に交尾や抱卵、擬傷行動などの繁殖行動を見かけるようになると同時に、残念な結果を目の当たりにすることにもなった。
親鳥が雄雌交代しながら来る日も来る日も大事に温めていた卵が、一度の大雨であっさり流されてしまったり、カラスに見つかって
卵を食べられてしまったり、人が入って巣を放棄してしまったり。もしかすると私自身、過去に無知からくる危害を加えていたかもしれない。


この調査中、ふと思い出した文学作品があった。私が学生時代に好きだった中勘助という作家の「千鳥の卵」という小品だ
随筆と和歌と詩からなるこの作品を読んだ当時は、まだ野鳥のことをよく知らず、千鳥といってもどんな鳥なのか頭に浮かばなかった。
なので、よく分からないまま放置してあったのだ。チドリを身近に感じた今、もう一度あの作品を読んでみたくて、さっそく本屋で買い求めた。

読んでみると、なんと作者の気持ちが手に取るように分かる!嬉しい驚きだった。これは彼が神奈川県の平塚に住んでいた時の小品で、
彼が海岸で飼い犬を散歩させている時に見つけた千鳥の卵をめぐる一連の思いを綴ったものだった。
砂浜で見つけた千鳥の卵に飼犬が興味を示したので、いたずらされないよう手にとって安全なところに置き直したことから筆者の苦悩が始まる。


自分が卵を移動させたことで親鳥が卵を放棄し、結果、卵は孵ることなく砂浜に打ち捨てられてしまうのではないか、という不安と後悔を詩にうたい、
その卵のことばかり考えて続けて、しまいには「われら千鳥にてあらまし」と、自らを千鳥と同化させるまでに至るという悲痛な歌だ。


砂浜であることから、卵の親はシロチドリだろうか。その口笛のような鳴き声を作者は毎晩聞いていたし、姿も見たので、
チドリの卵だと思ったのだそうだ。

その卵に対する思い、口笛の主に対する思いが、今となっては私にも痛いほど分かる。私自身、調査中に見つけた低い中洲のコチドリが、
明日降ると分かっている大雨のことも知らず懸命に抱卵しているのを見て、何度その卵を安全なところに一時保管しようと思ったことか。
その体験を経て、卵に手を出してしまった作者の優しい後悔と、焦燥と、祈るような思いに共感できるようになったわけだ。
学生時代からの宿題をひとつ終えたような気がしている。


もちろん、繁殖に成功したペアもいて、綿毛の生えた可愛らしいヒナが親鳥に見守られながら中洲を走り回るところも何度か見ることができた。


イカルチドリのヒナ

季節が進んで夏になり、中洲は草で覆われてもうチドリ向けのゆりかごではなくなった頃、鴨川に何処からか若いイカルチドリが現れて、
元気に餌を採る姿を見たときは、ほんとうに心の底から嬉しかった。

6月 27, 2017

青い鳥

数年前、朝の通勤電車の窓からヒヨドリぐらいの大きさの青い鳥が見えた。JR芦屋駅の近くだった。民家のフェンスにむこう向きに止まったその鳥の鮮やかな青い後ろ姿が忘れられず、以来その鳥の名前が猛烈に知りたかった。ネットで調べたり、人に聞いたりしてみたが、けっきょく何か分からないまま数年が過ぎた。

そのうちに家の近くで畑を借り、野菜を作り始めた。高速道路の高架下の、ひとけのない畑。ひとりで農作業をしていると、あるとき天国の調べのような美しい声で鳴く鳥が来た。ときどき近くに飛んできて、土の中から虫を探して食べている。腹がレンガ色で背面が青っぽい。ネットで調べてイソヒヨドリという鳥だと分かった。「ヒヨドリ」という名前がついているものの、実はツグミに近い鳥らしく、歌が上手い。複雑な鳴き方で長々とさえずる。どうやら畑の近くで繁殖しているようで、時おりメスの姿も見かけた。

イソヒヨドリの若いオス
(神戸の畑で)

あるとき写真に撮った、このイソヒヨドリのオスのうしろ姿を見てはっと気がついた。前に芦屋駅で見たあの青い鳥は、このイソヒヨドリだったに違いない!後ろから見たら真っ青なのだ。

イソヒヨドリのオスの後ろ姿
(神戸の畑で)

長いあいだ心に抱き続けていた疑問が晴れ、その頃から急に野鳥に興味が出てきた。畑をしているとセキレイやジョウビタキなどが虫を探しにやってくるし、気をつけて見てみると、民家の庭木などにメジロやエナガ、時には小さなキツツキのコゲラまで居るではないか!身近にいるのはスズメやカラスだけじゃなかったんだと感激した。畑をしていても、珍しい鳥の声が聞こえると、作業の手を止めてその姿を探したりするようになった。

子どもの進学の関係で急に神戸から京都に引越すことになり、手塩にかけた畑とお別れする日がやってきた。作物や農具を片付け、いよいよ畑に最後のお別れをする日、お世話になった畑の土を見ながらひとりで涙ぐんでいると、一羽のイソヒヨドリが私のすぐそばの杭にとまって、長い間じっとこっちを見た。この畑で育った子かもしれない。ああ、お別れを言いに来てくれたんだなと何故か思った。そのときからイソヒヨドリは私にとって特別な鳥となった。

イソヒヨドリのメス(あるいは若鳥?)
神戸の畑で。

京都に引越してからも野鳥への興味はつづき、自転車にまたがってあちこちへ鳥の写真を撮りに行くようになった。そのうちに知っている鳥の種類も増え、珍しい鳥にも出会うようになり、野鳥との出会いが楽しくて仕方なくなってきた。もっともっと鳥について知りたい、鳥について誰かと話したい、と思うようになった。が、家族や友達に熱く語ったところで、相手は困り気味に「あ、そうなん?」というだけ。しまいに「また鳥か...」みたいな顔をされる。

イソヒヨドリのメス(京都にて)
海から離れた京都でも
イソヒヨドリはちゃんといた!

イソヒヨドリのオス(京都にて)

そこで、思い切って日本野鳥の会の京都支部に「おためし入会」してみた。野鳥の会の創始者、中西悟堂さんの著書を読んだのも良いきっかけになった。探鳥会なるものにぼちぼち参加してみるうちに、一気に行動範囲も知識も広がって、まるで世界が急に大きくなったように感じている。と同時に、野鳥について私はまだ殆ど何も知らないということも分かってきた。日本野鳥の会には、鳥のことはもちろん、植物や昆虫のことなどに関しても知識の深い人たちが沢山いる。それらに対する愛着を熱く語っても、細かい質問をぶつけても、ちゃんと受け止めてくれる人たち。まるで水を得た魚のように質問しまくる自分が何だか可笑しい。

毎日の通勤の途中も、そしてもちろん週末も、できるだけ多くの時間を野鳥の観察に使うことが今の私の幸せになっている。双眼鏡ひとつでこんなに豊かな世界が広がるなんて、つい数年前には知らなかったことだ。

イソヒヨドリは私にとって文字通り「しあわせの青い鳥」だったのだ。そして、偶然にも今年は酉年。私にとっての鳥元年となった。

3月 13, 2017

甲斐駒ケ岳の絵が呼んだ不思議

久々の更新。何ヶ月ぶりだろう。

少し長い話になるが、不思議な体験をしたので記しておこうと思う。

神戸から京都に移る少し前、高槻にある小さな画廊に絵を見に行った。カルディの絵で有名な井上リエさんともう一人の画家の2人展だった。そこで、ご本人の在廊日をねらって「リエさんの絵のファンなんです!」と直接アプローチし、以来やりとりをしてもらっている。とても気さくで明るい素敵な女性。

そのリエさんのお父様の描かれる絵がまたすごい。趣味で描いておられるとのことだが、本格的。リエさんとはまた違った画風。でも、底に流れるものにやはり何か共通するものがあるのか、お父様の描かれる絵をひと目見て気に入ってしまった。それで、リエさんにお父様の絵が好きだ好きだと言っていると、なんとそのお父様が絵のコピーを送って下さった。どれもこれも素晴らしく、感激して、すぐにお礼の手紙を送った。お父様の描かれた絵のなかに、私にとって忘れられない山、甲斐駒ケ岳の絵があったので、その山についての因縁も書き添えた。すると、あろうことか、今度は甲斐駒ケ岳を描いた3種類の絵を送って下さったのだ。それも今度はコピーではなく原画で!それが下の3枚の絵。場所や季節が違うのか、少しずつ雰囲気が違う。でも、その優しく美しい姿はどの絵にも見事に描かれていて、まるで慈愛深い微笑みをたたえているかのように見える。絵を見て思わず涙ぐんでしまった。






もうずいぶん昔の話だが、私には若くして亡くなった婚約者がいた。山登りが好きな人だった。でも、もう結婚するし、これからはあまり危険な山登りはやめる、これを最後の雪山にすると言って出かけていったのが、この2月の甲斐駒ケ岳だった。入籍する10日前のことだった。雪崩による遭難の知らせが届いて、現地にかけつけ、眠れぬ一夜を過ごした明くる日、雪の下から見つかった。愕然とする私に、山小屋の年配の女性が深々と頭を下げてくれた。すべてを含んだあのおばあさんの一礼を今でも忘れることができない。それ以後、私が経験することになる苦難を、あのおばあさんは見通していたのだろう。

私だけではなく、彼のまわりの何人もの人生を変えてしまった大きな出来事だった。とりわけ、彼のお母さん。この人は夫を早くに亡くし、その後、長男である彼を心の支えにもし、頼りにもしていたと思う。何より、子に先立たれるというのはどんなに無念か知れない。そして、もう一人、強烈な体験をしてしまった人がいる。そのとき彼と一緒に登っていた山仲間のNさんだ。気が合うのだろう、よく2人で山に行っていた。相棒を亡くし、号泣していた。

リエさんのお父様からこの3枚の甲斐駒ケ岳の絵を頂いてすぐに考えついたのは、3枚のうち2枚を、彼のお母さんとNさんに送ろうということだった。お母さんの方とは、その後もずっと間接的につながっているが、山仲間のNさんとは年賀状の他はお互いほとんど連絡を取らない。考えてみれば、あれから28年の間に初めて手紙を出すことになる。突然の絵のプレゼントに、2人ともびっくりするだろうな~とワクワクしながら2通の封筒をポストに投函した。そしてその足で、最近はまっている鳥の観察をしに、自転車で宝ヶ池に向かった。そして、そこでびっくりするような出来事が。

鳥を探しながら宝ヶ池をうろうろしていると、なんとそのNさんが歩いている!!今しがた28年ぶりに連絡をとるために手紙を投函したその相手が、いま目の前に居る!?私は自分の目が信じられなかった。もう20年以上経っているし、お互い姿も前とはずいぶん違っているだろうし、きっと自分の勝手な思い込みにちがいない。他人の空似というやつだろうと思ったが、見れば見るほど似ている。髪の毛に変化はあるものの、目がNさんなのだ。お連れの人とふたりで双眼鏡を手に鳥を見ていた。奈良に住んでいるので、京都にいても不思議ではない。しばらくあとをついて歩いたが、半信半疑のまま声をかけそびれ、他の場所へ移動した。でもその後、やっぱり意を決して「もしかしてNさんですか?」と聞いてみようと思い、また出会った場所に戻ってみたが、彼はもう居なかった。

後日、彼から山の絵のお礼の手紙が来た。すごく喜んでくれた様子。そして、私が最近バードウォッチングに夢中であると書き送ったためか、オシドリの写真を2枚同封してくれた。「2月26日に宝ヶ池で撮った写真です」と書いてあった。2月26日、それは私が宝ヶ池でNさんを見かけた日なのだ。これで証明された。やっぱりあれはNさんだったのだ!!

あれから30年近く経って初めて手紙を出したその日に、その当の相手を偶然見かけるとは。なんという不思議だろう。こんな出来事が起きると、やっぱり人間の知識では計り知れない何か神秘的な力が働いているとしか思えない。故人がいたずらしたのか、絵に霊力があったのか、時空がねじれたのか...。こういうのを心理学用語で「共時性(シンクロニシティ)」と呼ぶらしい。漠然とした「信仰心」のような、何か謙虚な気持ちを自覚する瞬間でもある。

他の人には、おそらくどうでもいいような小さな出来事かもしれない。でも、私にとっては大事件だった。

9月 03, 2016

20年ぶりのシャンティニケタン

とうとう行ってきた。心のふるさとインド。若い頃の自分を突如惹きつけて、現地に赴かせた国。唯一知っている外国。ある意味、私の人生を決定づけた国。なのに、なぜか長らく再訪する機会がなかった国。でも、この度、娘の強い希望もあって、ようやく行く気になった。お金もかかるし、仕事の段取りなど準備も大変だし、おまけにバングラデシュでテロが起きたりして何となく不穏な感じがしたけど、思いきって決行してよかった。

場所は私のかつての留学先、西ベンガル州のシャンティニケタン。娘の父親と出会った場所だ。コルカタから列車で2時間ほど北西に行ったベンガル地方の田舎で、むかし詩聖タゴールが学校を設立したところ。幼稚園から大学・大学院まで備えたかなりの規模の学園村だ。その敷地内の古い小さなホテルに宿をとった。

娘にとっては、初めて訪れる父親の母国。自分の血の半分はインド由来なのにもかかわらず、これまでほとんど縁がなかった。18歳になってやっと、どんなところか自分で確認できたのだ。亡き父親の兄にも会えた(彼の話す英語が理解できず、ほとんどコミュニケーションは取れなかったが、会ったということが重要なのだ!)

私にとっては、懐かしい国への再訪であり、亡き夫の弔いの旅でもあり、彼に娘の成長を報告する旅でもあった。そして密かに、母親としての卒業旅行でもあったと思っている。いわば、子育ての仕上げ作業。

ちょうどベンガル地方は雨季。よりによって、一番蒸し暑い時期を選んでしまったことになるが、それはそれで、雨季の情緒も味わえた。やはりDNAのおかげか、あるいは私が気をつけたやったからか、幸い娘はインド初訪につきものの下痢もせず、現地の食べ物を楽しめたし、何より、あちらでの動物たちの自由さを目の当たりにできたのは良かった。人間とそれ以外の生き物が同じ場所で生きながら、お互いあまり干渉しないで生きている。日本ではなかなかお目にかかれない風景だ。

今回、とにかく蒸し暑さで参ってしまい、体力・気力を奪われてしまって、ほとんど写真を撮らなかったが、かろうじて動物の写真は何枚か撮れていたようなので、以下にアップしてみる。

コルカタの友人宅にいたリス

同じく友人宅に餌付けされた小鳥(セキレイの仲間?)

草陰に隠れた子牛

シャンティニケタンの犬

シャンティニケタン サンタル族の村の山羊・牛

娘が特に気に入った朝ごはん
ググニという豆カレーと
ルチという揚げパン

サンタル族の村で

サンタル族の村で

友人宅の猫

道の真ん中に山羊だんご(熟睡中)

道で寝る牛・犬
奥に見えるのがサイクルリキシャにとってかわった
tuktuk(toto)という電動オートリキシャ

シャンティニケタンの牛は美しい

今も変わらず木の下で授業が行われている

小学校の授業風景

カッコウみたいな声で鳴いていた
ヒヨドリぐらいの大きさ。


シャンティニケタンでよく見かけた。
頭が尖っていてかっこいい

大きなインコ。よく群れで飛んでいた。
鮮やかな緑色で、美しかった

ホテルの前の茶店のおかみさん
壁の絵は学生が描いてくれた似顔絵らしい。
女神ドゥルガーに似せてあるけど、
手に持っているのは調理器具(笑)

娘にすっかりなついた野良犬たち

娘に撫でてもらって夢心地

娘のハートを射抜いた子

サルの親子に出会った

ハヌマーン

極小の鳥。メジロぐらいの大きさ。
でも体に似合わず大きな声で鳴く。

雨の中をサイクリング。雨季らしい風景。

友人宅の猫

インドの犬はみんなこんな形と色
犬の原型のような素敵な姿

大都市コルカタの眺め。ホテルの窓から

大都会にもリスがいる。
しかも高層マンションの屋上に!

トビ

親を呼んでいたのか、ずっとピーヒョロロロと鳴いていた。

シャンティニケタンは、世界遺産に登録されたからか、随分と変わってしまっていた。一般の観光客が激増して、車も増え、ホテルが建ち、学校の施設のまわりにはフェンスが張り巡らされて、もはやのんびりした場所ではなくなってしまっていた。それでも、少し学内をサイクリングすれば、かつての雰囲気が健在なのが分かったし、人々の気質は良くも悪くも前のまま。相変わらず動物と人間が見事に住み分けているし、牛も尊重されている。少数民族のサンタル族の村も以前のままだったし、吟遊詩人のバウルたちも健在だった。

ただ、自分は変わった。それを実感したのは帰国してからだった。

帰国してすぐ、通常運転に戻った。仕事に行き、帰ってご飯を食べて寝るだけの毎日。若い頃ならそれを退屈と感じたかもしれない。それが今の私には何ともいえず幸せに感じられるのだ。一日いっしょけんめい働いた帰り道、自転車をこぎながら見る高野川の夕焼けの美しさといったら!

海外もいいけど、もっといいのは穏やかな日常だということが分かるようになってきたのは、やはり年の功だろうか。そんな単純なことを自覚するために、えらく時間とお金を使ってしまったわけだが、まあとにかく行ってよかった。旅行に協力してくれた家族や友人、同僚や上司に感謝!

4月 29, 2016

新生活

4ヶ月ぶりの投稿。

 ドタバタの引越しを経て京都に来てから、はや1ヶ月が経とうとしている。まだ神戸にたくさんゴミや荷物を残してきているものの、ここ京都ではようやく日常生活が営めるようになってきた。

子どもの大学進学に合わせて家族全員で引越すなんて、まれなケースだとは思うが、妹一家もいることだし、みんな集まっていた方が何かと便利なので思い切って移住した。


朝の通勤路。引越した当初は満開の桜並木だった。

ここは、いわゆる観光向けの京都とはちがい、人の生活が中心のエリア。川のおかげで自然も残っている。すぐ近くにコンビに2軒、大型スーパー、郵便局、銀行、電気屋、本屋と何でも揃っている一方、少し歩けば山あり、川あり、森あり。川にはカモやサギのほか、カワセミや鹿まで居る。

高野川の河川敷には鹿もいる!


通勤も快適になった。最寄り駅までは自転車で川沿いを走り、そのあと京阪電車で大阪へ。この川沿いのサイクリングの気持ちのよさといったら!当初は満開の桜の中を良い匂いにつつまれて夢心地で走っていた。よく見ると川には色んな鳥がいっぱい。最近は子連れのカモを観察するのが日課になっている。

まだまだ片付けも残っているし、本当に落ち着くまでにはもう少しかかると思うが、こうやって節目節目に引越すのもいいなあと思っているところ。きっかけを与えてくれた娘と妹に感謝感謝。