3月 13, 2017

甲斐駒ケ岳の絵が呼んだ不思議

久々の更新。何ヶ月ぶりだろう。

少し長い話になるが、不思議な体験をしたので記しておこうと思う。

神戸から京都に移る少し前、高槻にある小さな画廊に絵を見に行った。カルディの絵で有名な井上リエさんともう一人の画家の2人展だった。そこで、ご本人の在廊日をねらって「リエさんの絵のファンなんです!」と直接アプローチし、以来やりとりをしてもらっている。とても気さくで明るい素敵な女性。

そのリエさんのお父様の描かれる絵がまたすごい。趣味で描いておられるとのことだが、本格的。リエさんとはまた違った画風。でも、底に流れるものにやはり何か共通するものがあるのか、お父様の描かれる絵をひと目見て気に入ってしまった。それで、リエさんにお父様の絵が好きだ好きだと言っていると、なんとそのお父様が絵のコピーを送って下さった。どれもこれも素晴らしく、感激して、すぐにお礼の手紙を送った。お父様の描かれた絵のなかに、私にとって忘れられない山、甲斐駒ケ岳の絵があったので、その山についての因縁も書き添えた。すると、あろうことか、今度は甲斐駒ケ岳を描いた3種類の絵を送って下さったのだ。それも今度はコピーではなく原画で!それが下の3枚の絵。場所や季節が違うのか、少しずつ雰囲気が違う。でも、その優しく美しい姿はどの絵にも見事に描かれていて、まるで慈愛深い微笑みをたたえているかのように見える。絵を見て思わず涙ぐんでしまった。






もうずいぶん昔の話だが、私には若くして亡くなった婚約者がいた。山登りが好きな人だった。でも、もう結婚するし、これからはあまり危険な山登りはやめる、これを最後の雪山にすると言って出かけていったのが、この2月の甲斐駒ケ岳だった。入籍する10日前のことだった。雪崩による遭難の知らせが届いて、現地にかけつけ、眠れぬ一夜を過ごした明くる日、雪の下から見つかった。愕然とする私に、山小屋の年配の女性が深々と頭を下げてくれた。すべてを含んだあのおばあさんの一礼を今でも忘れることができない。それ以後、私が経験することになる苦難を、あのおばあさんは見通していたのだろう。

私だけではなく、彼のまわりの何人もの人生を変えてしまった大きな出来事だった。とりわけ、彼のお母さん。この人は夫を早くに亡くし、その後、長男である彼を心の支えにもし、頼りにもしていたと思う。何より、子に先立たれるというのはどんなに無念か知れない。そして、もう一人、強烈な体験をしてしまった人がいる。そのとき彼と一緒に登っていた山仲間のNさんだ。気が合うのだろう、よく2人で山に行っていた。相棒を亡くし、号泣していた。

リエさんのお父様からこの3枚の甲斐駒ケ岳の絵を頂いてすぐに考えついたのは、3枚のうち2枚を、彼のお母さんとNさんに送ろうということだった。お母さんの方とは、その後もずっと間接的につながっているが、山仲間のNさんとは年賀状の他はお互いほとんど連絡を取らない。考えてみれば、あれから28年の間に初めて手紙を出すことになる。突然の絵のプレゼントに、2人ともびっくりするだろうな~とワクワクしながら2通の封筒をポストに投函した。そしてその足で、最近はまっている鳥の観察をしに、自転車で宝ヶ池に向かった。そして、そこでびっくりするような出来事が。

鳥を探しながら宝ヶ池をうろうろしていると、なんとそのNさんが歩いている!!今しがた28年ぶりに連絡をとるために手紙を投函したその相手が、いま目の前に居る!?私は自分の目が信じられなかった。もう20年以上経っているし、お互い姿も前とはずいぶん違っているだろうし、きっと自分の勝手な思い込みにちがいない。他人の空似というやつだろうと思ったが、見れば見るほど似ている。髪の毛に変化はあるものの、目がNさんなのだ。お連れの人とふたりで双眼鏡を手に鳥を見ていた。奈良に住んでいるので、京都にいても不思議ではない。しばらくあとをついて歩いたが、半信半疑のまま声をかけそびれ、他の場所へ移動した。でもその後、やっぱり意を決して「もしかしてNさんですか?」と聞いてみようと思い、また出会った場所に戻ってみたが、彼はもう居なかった。

後日、彼から山の絵のお礼の手紙が来た。すごく喜んでくれた様子。そして、私が最近バードウォッチングに夢中であると書き送ったためか、オシドリの写真を2枚同封してくれた。「2月26日に宝ヶ池で撮った写真です」と書いてあった。2月26日、それは私が宝ヶ池でNさんを見かけた日なのだ。これで証明された。やっぱりあれはNさんだったのだ!!

あれから30年近く経って初めて手紙を出したその日に、その当の相手を偶然見かけるとは。なんという不思議だろう。こんな出来事が起きると、やっぱり人間の知識では計り知れない何か神秘的な力が働いているとしか思えない。故人がいたずらしたのか、絵に霊力があったのか、時空がねじれたのか...。こういうのを心理学用語で「共時性(シンクロニシティ)」と呼ぶらしい。漠然とした「信仰心」のような、何か謙虚な気持ちを自覚する瞬間でもある。

他の人には、おそらくどうでもいいような小さな出来事かもしれない。でも、私にとっては大事件だった。

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