早いもので、甥っ子が生まれてから、もう1ヶ月以上経った。順調に育っている。タマジも、ようやくこの不気味な生き物に慣れてきた。さなぎも、妹と赤ん坊に対して、最初かなり屈折した態度を取っていたのが、ようやく少し和らいできたし。
赤ん坊は、最初ただの虫みたいだった。全くコミュニケーションが取れず、ただお腹が空いて泣くだけ。それが、そろそろ目が見えるようになってきて、人の顔を認識すると、にこーっと笑うようになってきた。派手な柄のクッションにも愛着を示すようになってきた。でも、こうやってだんだん人間らしくなってきた、この赤ん坊とのお別れの日が近い。もう京都に帰ってしまう。
と同時に、さなぎの塾通いが始まる。夏休みの間だけ、「夏期講習」なるものに通うことになっていたのだ。私は不賛成だった。でも、本人と、その祖母が是非にというので、夏休み限定で通ってみることに。なんと授業時間が、13時~20時。なんでそんな変な時間帯なんだろう。朝から勉強すればいいのに。しかたがないので、私も職場に言って、勤務時間を変えてもらった。遅く始まり、遅く終わるように。帰りにさなぎを迎えに行って、一緒に帰宅する。へんなの。
ところで、最近久しぶりに、染織家の志村ふくみさんのエッセイを読んだ。『白夜に紡ぐ』という新刊本。そして、すごく驚いた。というのも、この人、若いときに染織との鮮烈な出会いを体験し、これまで染めと織りひとすじに人生を歩んできて、その世界の頂点を極めた人なのだが、いま老境に達し、さらに新たな出会いを体験しているからだ。
その出会いの相手は、ドストエフスキー。まるで初恋のように、夢中でドストエフスキーの作品を読み漁っているらしい。それも、何度も何度も繰り返し。毎回、終わってしまうのが惜しくて、終わりに近づくにつれ、速度を緩めて読むらしい。染織関係の取材でイラン~トルコに旅したときも、ドフトエフスキーを片時も離さず、読み続けていたそうだ。仕事が終わって、夜、床に入ってから彼の小説に向き合うときが至福のときだと言っている。京都の山奥に建てた山小屋にひとり籠もりに行くときも、彼の小説が一緒。誰にも邪魔されずに読めることが何より有り難いらしい。これでは、本当にまるで初恋だ。
染織との出会いも強烈だったそうだが、このドフトエフスキーとの出会いもまた強烈そうだ。両方とも、彼女の生い立ちに関係している。若い頃にその伏線があったのだ。老いてから、もう一度こんな風に燃え上がることがあるのだなあということに何よりも感動した。これまで精一杯生きてきた人だからこそ、こんなことが起こりうるのかもしれないが。
でも、老境にも、こんな出会いが待っているのかもしれない、と思うとわくわくする。老後の素晴らしさを説いた他のどんな本よりも、この本はそれを教えてくれる。恋する乙女のように、ドフトエフスキーの魅力を熱く語る志村ふくみさん、素敵だ。
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