気がついたらもう9月。いつのまにか8月が通り過ぎていた。
夏のあいだ、なかなか咲かなかった朝顔が、9月になってようやく咲き出した。きっと8月は暑すぎたんだろう。
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小さな青い朝顔 |
雨がなかなか降らず、畑の夏野菜が瀕死の状態だった。胡瓜など早々に終わってしまい、あまりの暑さで茄子やシシトウも上手くいかなかった。ただ、初めて挑戦したカボチャはまずまず成功。畑に植えたゴーヤもまだ元気。
お世話になったトマト・胡瓜・カボチャなど、感謝しつつ片付けて、オクラの種取りをして、さてそろそろ冬野菜の準備!と思ったら今度は逆に雨ばかり。畑がぐじゅぐじゅで入れない。それでも、さすがにそろそろ大根の種を蒔かないと!
というわけで、意を決してさっき雨の中、堆肥を入れて畝を立て、大根2種類を蒔いてきた。
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この夏は、若い友達に教えてもらった『子どもと昔話』という季刊誌にはまっていた。この小冊子、「
小澤昔ばなし研究所」というところが出していて、編集長は、あの指揮者の小澤征爾さんの兄、小澤俊夫さん。昔話を見直す良い機会になった。
その第27号の中に、心ひかれる一文がある。編集長の奥様、つまり小澤征爾の兄嫁さんにあたる、下河辺牧子さんのコラムだ。「子どもの自信」に関して書かれている。
彼女は職業柄か、よく「子どもに自信をつけさせたい」という相談を受けるそうだ。が、彼女はその意味が分からないという。そもそも、自信とはそんな風に外からつけてあげられるものではない、と。そして、今の世の中、子どもより先に大人自身が自信を喪失しつつあり、その方が問題なのではないか、という。ひとりひとりが孤立して、なかなか安心できる関係が築けなくなってしまっているからだ。
そんな中で、いわゆる「おばさん」という人種の中に、まだ「自信」というものが生き残っている、と彼女は考える。ともすると嫌われがちな「おばちゃん」。テレビ等でよくネタにされる「大阪のおばはん」のような人達である。「おばちゃん」は何故か自信をもって人と接することができる。初対面の人とも旧知のような関係を瞬時に作り上げることができる。この自信は一体どこから来るのか?
彼女はその自信の基礎を、毎日の生活のなかに見出す。日常生活において、「おばちゃん」は家事を担うことが多い。そのため毎日、野菜や魚などの食材、水や火、天気や季節、そして生身の子ども、ときに病人などと、じかに接することになる。そうして、じかにからだでモノとつきあって暮らせば、結果として生きる自信がつくのだという。
これを読んでなるほど!と思った。ふだん自分でぼんやりと考えていた事柄を、素晴らしい文章で言い当ててもらったように感じ、何かすとんと腑に落ちた。(私の紹介が舌足らずなのであって、牧子さんの原文はもっと理路整然として素晴らしい)
私が畑を始めてから何となく、特に根拠はないのに、生きる自信が多少なりとも出てきたように感じている理由も、多分これだったのだ。火や水、土、雨、風、そして太陽。さらには虫や鳥、草、そして野菜。そういう限りなくリアルな、ナマの存在に接していると、何となく、何がなくても、人間ゼロからでも生きていけるのではないか、という漠然とした自信が生まれる。
そうなのだ、私が目指すのはこの種の自信なのであって、決して何か特殊なものではない。そして、私がサナギに家事を分担しろ、タマジや甥っ子(さなぎにとっては従弟)の世話をしろ、パソコンに向かう時間を減らせと口を酸っぱくして言っているのも、この種の自信を持ってほしいからなのだ。
勉強ができるとか、特技があるとか、そんなことでは競争原理に巻き込まれるだけで、本当の自信にはつながらないと思う。それよりも、生きる基礎というか、この世に生存することへの安心感というか、そういう基本的な自信を毎日の生活の雑事の中から掴み取ってほしいのだ。
ああ何かとてもすっきりした。
下河辺牧子さんの文は、どの号も素晴らしく、読み応えがある。いい雑誌を紹介してもらった。