9月 08, 2012

四季一巡

大好きな野葡萄が色づき始めた。いよいよ秋。そういえば数日前から空気に芳香が混じるようになっている。香りの源は知っている。近所に繁茂する葛(くず)の花だ。ちょっと葡萄に似た優雅な香り。それにオシロイバナの匂いも混じっている。

5月だけでなく、9月もけっこう風薫る季節だなあと思う。

野葡萄も色づき始めた

畑に大人のコオロギが姿を見せるようになった。可愛い声で鳴いている。そういえば、去年初めて畑を始めたときもコオロギが鳴いていた。そうか、あれからちょうど1年経ったんだ!

ピーマンの葉で休むコオロギ
ということは、これで畑の四季を一応ひととおり経験したことになるわけだ。まだまだ初心者だけど、それでもこの1年で本当に多くのことが分かった。

まず何よりも水がどれほど大切か。この畑には水源がないので風呂桶に雨水を溜めて使うのだが、雨の無い季節にはそれがからっぽになる。そうなると水が遣れず、作物が無残に枯れていく。苗の生育期など、本当に必要な時期に必要な量の水を確保すべく、綿密な水計画が必要なのだということがよく分かった。

作物の成長段階によっては、逆に水を遣りすぎてもいけないらしい。炎天下、私が苦労して遠くから汲んできた水を胡瓜などに遣っていると、農家出身のその奥さんが、「そんなに作物を甘やかしたら駄目よ~!まだ苗が小さいうちは水が要るけど、大きくなったら水なんてやらなくていいの。そんなに甘やかされたら根を張らなくなっちゃうわよ!そんなに毎日水やりしてたら、これからずっと毎日水遣りしないといけなくなっちゃうでしょ!」と、あきれ顔。なるほど。

次に土。素人ながら、どんな土が肥えていて、どんな土が痩せているのか、手触りや匂い、色などである程度分かるようになってきた。このたびトマトを植えた箇所の土がそうなのだが、痩せた土というのは、まるで粘土。雨が降ると恐ろしくぬかるんで、乾くとカチカチ。セメントみたい。そして無臭。それに対して、いい土というのは色んなものを含んでいる。木や草の腐った屑、虫、微生物等々。乾燥しても固くならないし、水分を含むと「す~ん」とした独特の香りがする。

あとは、何に関しても「タイミング」というのがいかに大事かということ。タネ蒔きのタイミング、苗の移植のタイミング、収穫のタイミング、水遣りのタイミング... タイミングを逃すと、ぜんぜん上手くいかない。天候をじっくりと睨みつつ、色んなタイミングを見極められるようになるのが畑作のポイントだと思った。

それから、ちょっと「エセ哲学的」になるが、作業というもののコツというか。つまり、とうてい無理だと思われる大仕事でも、目の前の課題だけを見つめてやっていれば、いつのまにか全体が達成できているということが身をもって分かった。例えば、20メートルの畝ぜんぶの草引きをしなければならないとする。畝1本ぜんぶを見渡すと気が遠くなる。でも、目の前の小さな範囲だけを見つめて、そこだけ草を引くと思ってやっていると、いつのまにか全部終わっている。

これを「千里の道も一歩から」と言ってしまえば、それまでのことなのだろうけど、実際に自分が経験して、その後この諺に出会うと、本当に腑に落ちる感じがする。諺というのは、そういう風にして学ぶとちゃんと頭に入るのになあと思う。

さらに、もうひとつの似非哲学は子育てへの応用。タイミングのことにしても、水遣りのことにしても、子育てをする上での教訓を含んでいるように思うのだ。子どもの状態をみて、構ってやる時期、放っておく時期、子離れ親離れの時期などのタイミングを見極める必要がある。タイミングよく手助けができれば、その子の生まれ持った特性を上手く伸ばしてあげられるのだろう。その見極めがいかに難しいか!

水遣りにしてもそう。子育ての場合、水に当たるのは何だろう?世話?モノ?お金?何にしても、過保護にすると自分で生きよう、伸びよう、必要なものを確保しようというような力が育たない。ある程度大きくなったら、適度に不足した状態にあえて置いておくことが必要なのだろう。(ただし、これが一番むずかしい!)

ちょっと深読みしすぎかもしれないけど、とにかく畑に居ると次から次へと色んなことに気づいたり考えたりする。そして、そこで気づいたことをやたらと他の分野に応用してみたくなる。

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さてさて!ここからは畑の近況。

早春にタネを蒔いて以来ずっと大事に育ててきた米茄子、その名も「ブラックビューティー」がようやく実をつけ始めた。今日ひさびさに畑に行ってみたら、そのビューティーちゃんが鈴なりに!


茄子って何だか色っぽい。


いっぱい獲れそう!

タネ取り用のオクラや、まだ成りそうなシシトウ、甘長トウガラシ、茄子などを残して、夏野菜をすっかり片付けた。

次は冬野菜の植え付け準備。長い畝を1本仕上げてきた。


種取り用においてあるオクラ


今日の収穫!

米茄子をいっぱい収穫して帰ったけど、タネの袋をよく読むと収穫時はなんと20センチぐらいに成長したときらしい。今日とったのは全部10センチぐらい。早すぎたかも!そのせいか、さっそく食べてみたら少々えぐい。ほんとに収穫のタイミングって難しい...


なぜか野菜の番をしているタマジ

「天神さんの朝顔」が花盛りを迎えていて、毎朝いっぱい咲く。電車から見ると、同様の小さな朝顔が線路脇でも花盛り。可愛らしい。ここだけまだ夏が残っているような感じがして、すがるように愛でている。

天神さんの朝顔が花盛り

9月 03, 2012

詩心

色とりどりのサルスベリの花びらが歩道に散って、金平糖を散らしたように可愛らしい。

蝉の鳴き声がアブラゼミ&クマゼミからミンミンゼミ&ツクツクボウシに変わって、そのツクツクボウシさえも、ときおり道で事切れた姿を見せるようになった。夏もとうとうおわりに近い。

この夏の読書の中で一番よかったのは、多田富雄さんの『生命の木の下で』(新潮文庫)。 多才な人で、免疫学の優れた研究者でもあり、能楽に通じてもいる。『生命の意味論』『免疫の意味論』といった専門分野に近い本も面白かったが、エッセイストとしての本領を発揮した『独酌余滴』が一番好きで、何度も読み返した。ことばの選び方がほんとうに上手で、控えめだけど強烈な、何ともいえない情緒をたたえた文章を書く。このたび読んだ本で分かったことだが、どうやら若い頃、詩に心酔していたらしい。どうりで!

北杜夫といい、中勘助といい、この多田富雄といい、私の好きなのはどうやら「詩のこころ」に通じた人の書く文章であるらしい。散文ではなく韻文。小説ではなく詩。だんだんはっきりしてきた。

この多田富雄という人、人生の全盛期に突如、脳梗塞に見舞われ体の右半分の自由を失う。そこから壮絶なリハビリを経て、また医者としての冷静な目を自分の体に向けつつ書いた『寡黙なる巨人』で、ふたたびエッセイストとして復活する。

その発作の前と後で、人生ががらりと変わった人であるが、今回読んだ『生命の木の下で』という本は、その発作のあとに出版された「発作前」の著作を集めた本。まるで自分の死後、自分の追悼集が出版されたのを自分の目で見届けたような気持ちだったのではないだろうか。

畏れ多いことだけど、静かにひとりでこの本を読んでいると、まるで旧友に再会したような気持ちになる。