8月 21, 2011

はじめの第1歩?

ずいぶんと間があいてしまった。いつのまにか夜明けが遅くなり、虫の鳴き声も変わってきた。夜になると、秋のような虫が鳴いている。夏から秋へ。何となく切なくなる季節。

その間に劇的な進展を遂げたものがひとつ。それは、かねてからの夢だった「自分で自分の食べるものを作る」というプロジェクト。

「いつか田舎で暮らしたい。そして、自分の食べる野菜ぐらいは自分で作りたい」という夢を抱き始めてからもう何年も経つ。私の周りの人たちも、私のこの夢物語を何度も聞かされている。でも、実際は今の生活を急に変えるわけにいかない。仕事のこともあるし、サナギの学校のこともある。しかしそうやって、「いつか、いつか」と言い続けて結局なにもできないまま人生が終わってしまうかもしれない。ただの夢物語で終わってしまうかもしれない。それは嫌だなあ...

サナギも随分大きくなり、手もかからなくなってきたし、今年あたり自分の将来につながるような何か新しいことを始めるぞ!と、年賀状にもそんなようなことを書いた。

そこで、夢を実現すべく、とにかく何でもいいから動き始めようと思い、以前テレビで見た貸農園の情報を思い出して、ネットで漁った。野菜作りは田舎に行ってから始めたのでは遅い。それまでにせめて野菜作りの何がどう難しいのか、どんな土地を選んだらいいのか等、「つかみどころ」みたいなものを少しでも体得しておかねば。何かひとつでも動き出さなければ。

でも、ここでネックになるのが私に車がないこと。免許も持ってない。それは田舎で暮らすには致命的じゃないかと人によく言われる。このたびも、職場の同僚に「田舎に住みたいなら、まずは車の免許でしょう!」と言われた。ただ、この件に関しては自分なりのこだわりがあって、あえて車に頼らずにやってきた。とりあえず今はまだそこは曲げたくない。

ということで、車がなくても行ける農園を探したら、奇跡的に1件みつかった。それは高槻駅前。かなり遠いけど電車1本で行ける。駅から歩いて5分。さっそく見学を申し込んだ。でも見学の前に現地をひとりで見てこようと思い、仕事帰り(反対方向だけど)にこっそり見に行った。たしかに畑はあった。でも、すぐ横を電車がひっきりなしに通る。騒音がひどい。それに、そこは何とも言えず悲しい雰囲気のする場所だった。これはちょっと無理かも。ということで、見学はキャンセル。

他の農園はぜんぶ車がないと行けないところだった。とうとう「車なし生活」に別れを告げるときが来たのか?いずれ本当に田舎で暮らしたいのなら、どっちみち要るんだし。もしそうなら、今のうちに免許を取っておくことも夢の実現への第1歩なんじゃないかと考えるに至り、おもむろに自動車学校の情報にアクセス。思い切って免許を取るか!と覚悟を決めていたところに、思わぬ展開が。

母の仕事のお客さんのつてで、近所に1畝(うね)だけやらせてもらえる畑が見つかったのだ。あまりに激しい私の動きを警戒して、母がお客さんに頼んでくれたらしい。私は思い立つと、考えるより先に行動にうつしてしまい、十分な準備もないまま、周りを激しく巻き込みつつ突き進んでしまうところがあるので、母は何とかそのスピードを和らげようとしたのかもしれない。とにかく見つかった。

家から歩いてすぐのところ。まだ現地は見てないが、歩いて行けるというのが何より良かった。これで当面は車の免許も要らないし。たとえ1畝でも畑は畑。初心者には十分だ。とにかく何でもいいから作り始めたい。意外にも、サナギが興味を示している。これから夢の実現へと向かっていくための、まずは小さな第1歩。

夜明けがずいぶん遅くなった
午前5時ごろの朝焼け

8月 06, 2011

この夏の2冊

私にとって、なぜか夏といえば読書。きっと大学時代の長い夏休みの名残りだろう。やることがないので本ばかり読んでいた。

 
そして、夏になると必ず読みたくなるのが、トーベ・ヤンソンのムーミンシリーズ。特に冬の話。今夏は、『ムーミン谷の冬』を読み返した。雪と氷に閉ざされた北欧の冬の話を、うだるような暑さの日本の夏に読む。このギャップがたまらない。ムーミンといえば、子供向けと思っている人も多いようだが、決してそうではないと思う。むしろ色々な人と出会い、様々な経験した大人にこそ、この物語の真価が分かると思う。

ムーミンシリーズに出てくる生き物は、みんなとても魅力がある。「弱気」や「意地悪」、「傲慢さ」や「消極性」などといった、「負」の性格を抱える生き物たちが、詩的にデフォルメされて、ささやかな生をけなげに紡いでいく様子が語られる。人間は本来、誰でも色々と厄介な癖を持っているものだと思うので、デフォルメされているにもかかわらず、ものすごくリアルに感じる。(ちなみに、私の一番好きなキャラクターは、「ちびのミィ」。意地悪で気の強い毒舌家だ。)

そして、想像を絶する北欧の冬!長い長い冬のあいだ、太陽を拝める時間はごくわずか。北欧世界における「夏」の貴重さ、「夏至の祭」の特別さに自然と思いを馳せてしまう。かの地に暮らす人々にとって、毎日太陽が上って沈んでいくということは、決して当たり前のことではないのだ。それが分かるだけでも、この物語を読む価値があるかもしれない。

ムーミンシリーズは、「ムーミン谷名言集」なるものが作れるほど、物語が名言に満ちあふれているのもいい。今回も名言に出会ってしまった。それは、トゥーティッキ(おしゃまさん)の言葉。

冬眠しているはずのムーミンがなぜか目覚めてしまい冬の世界を初体験する。何もかもが初めてで、世界がまるっきり変わってしまったかのように感じ、もう春が来ないんじゃないかと思いながら不安な毎日を過ごす。が、やがて太陽の見える季節やってきて、その不安は晴れる。冬眠をしないトゥーティッキーは、不安がるムーミンにそれを伝えて安心させてやることもできたのに、あえて教えなかった。ようやく不安から開放されたムーミンがトゥーティッキに、「どうしてこのことを冬のあいだに言ってくれなかったの?ぼくが不安がっていたのがわからなかったの?」と訴えた。すると、トゥーティッキは、「どんなことでも、自分でみつけださなきゃいけないものよ。そうして、自分ひとりで、それをのりこえるんだわ。」

かっこいい!と思った。トゥーティッキのモデルは、作者トーベ・ヤンソン(女性)の私生活でのパートナーのトゥーリッキ・ピエティラ(女性)という人だと言われている。つまり、女性同士。もしかすると、トーベ・ヤンソン自身、「自分ひとりでのりこえるような何か」をたくさん抱えて生きていたのかもしれない。


そしてもう1冊、私にとってとても重要な意味を持つ本に出会った。それは、澤口たまみ著、『昆虫楽園』(山と渓谷社)だ。著者は絵本作家/エッセイストだが、岩手大の大学院で応用昆虫学を専攻した虫の専門家でもある。『虫のつぶやき聞こえたよ』というエッセイで、第38回日本エッセイストクラブ賞を受けている。根っからの虫好きで、猫好きで、間違いなく私と気が合いそうな人。

澤口たまみ著 山と渓谷社

私は小学生から中学生にかけて、蝶の採集に夢中だった。夏休みになると、毎日ひとりで捕虫網を持って出かけて行き、近所で蝶を採った。お目当ての蝶が捕まると、半殺しにして持って帰り、展翅版の上に貼り付けて標本を作る。父から伝授されたこの趣味は、父方の家に代々伝わる夏の楽しみだった。

それはそれは楽しかった。蝶を追いかけていると時間を忘れたし、好きな種類の蝶に出会えるよう、場所や時間を工夫するのは、まるで恋の作戦のようだった。そう、私は蝶に恋していたのだ。

でも、だんだんと大きくなるにつれ、それがいかに残酷なことであるかを自覚し、もう採らなくなった。たくさんの蝶の命を奪ってきたことを後悔もした。虫好きの人たちの中には、こういう苦い気持ちをひきずったひとが少なからず居ると思う。

おそらくこの著者もそうなのだろう。この本の中で、彼女は子どものときに自分が捕まえて、捕まえてみたものの、思ったほど綺麗じゃなかったため逃がしたコムラサキという蝶にこう言わせている。

「鳥に食べられたものは、鳥がそのいのちをつなぐのに役立つから、決して無駄な死ではない。いっぽう人間の子どもに捕まったときは、場合によってはいのちを捨てる羽目になる。だけどなかにはね、いるんだ。その心のなかに、ずっとずっと、ぼくらを棲まわせてくれる子どもが。」

このくだりを読みながら、電車のなかで涙があふれそうになって困った。このコムラサキの言葉だって、しょせんは人間が言わせた自分勝手な言葉だ。けど、もし本当にそうであるなら、私のあの宝石のように美しい夏の日々を悔いる必要はないのかもしれない。

澤口たまみさんの心のなかには、名のない黒猫が住んでおり、「聞き耳」として虫の世界との通訳をしてくれるらしい。その同じ黒猫が、かつて宮沢賢治の心のなかにも住んでいたと言われると、すんなり納得してしまう。同じ岩手出身であることといい、やはり彼女は宮沢賢治の魂を受け継いでいる思う。