忙しかった一番の原因は刑務所の仕事。とんでもなく大変な仕事であることが発覚した。私のウルドゥー語のレベルでは、とうてい要求に応えられない。
行くまでは結構軽い気持ちで考えていたのだが、初日、実際に行ってみて初めて大変な思い違いをしていたことに気がついた。まず、手書きの文字が読めない!書いてあることが何一つ分からない!もう目の前が真っ白になった。目星をつけて、辞書を引きまくるけれど、どの言葉も載ってない。焦りまくる。活字でしか見たことがないので、手書きになると、どんな形なのか、全然わからない。それでも何とか辞書を引き引き、どうにか8時間の勤務を終えた。1日20通の手紙を訳すことが要求されているというのに、その日はたった1通しか出来なかった。
その次の回は猛烈に頑張ったけど、3通。それも、ほとんど内容が分からないまま、何とかごまかしごまかし仕上げた。他の慣れた人達(中国語・韓国語・ポルトガル語・ロシア語など色々居る)や、外大等で、その言語を専門に勉強してきた人たちは、ちゃんと20通近くのノルマをこなしている。私だけがこんなにのろい!どうしようもなく惨めで、何度も泣きそうになった。
辞めたいと思った。しかし、いったん引き受けてしまった仕事、今さら断れない。どうしよう、どうしよう、と思いつつ、とにかくやれるだけやるしかない、ということで、毎日ウルドゥー語の単語帳に向き合い、NHKのウルドゥー語ニュースを聞き、頑張っている。でも、一向に手書きの文字は読めないし、手紙の処理数も増えない。
でも、良かったことがひとつだけある。それは、母国語の有り難さというものが身にしみて分かったこと。一日中8時間みっちり、読み慣れない文字を読もうとし続け、昼休みもつぶして、他の人とも口をきかず、ただひたすらアラビア文字を睨み続けると、本当に精も根も尽きてしまう。
その後に、日本語を目にすると、何とも不思議な感覚に襲われる。何の努力もなしに、目にする文字すべての意味が分かるのだ。駅の電光表示、電車の中の吊り公告、どれもこれも、私には意味が分かる!おそらく外国人から見たら奇怪きわまりない、この漢字交じりのへんてこな記号の意味が、私には全部分かる。しかも辞書なしで!当たり前のはなしだが、日本語が読めるということに対して、こんなに感激したことは今までに無い。
母国語があるということ、それの読み書きができるということは、何と有り難いことなんだろう!刑務所からの帰り道、毎回このことに感謝する。
世界には母国語での教育が受けられない人達がたくさんいる。母国語をしゃべることを禁じられ、英語やロシア語、スペイン語などを強要された民族も数多い。その結果、その人達が無くしてしまったものは、想像できないほど大きなものだと思う。それは自我をなくすことに等しい。
日本語で教育を受けられて、本当によかったと思う。自分の思考と身体と、母国の風土と言語、それら全てが、しっくりと一致しているという心地よさが感じられる。「この言語ならば操れる」という自信が、何よりも有り難い。